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奇跡の今日一日

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2011-05-12(Thu) [長年日記]

_ 大学院説明会が続く

きょうは本命の本郷の工学系大学院の説明会。原子力国際専攻である。思ったほどは志願者は来ていない。しかし、ちょうどマスターコースの新入生歓迎会も催されていて、教室のほうはかなりの盛り上がりであった。ドクターコースの学生のかたが研究室の中のプロジェクトのことなどを説明してくださる。先生も途中来てくださる。やはりここでやっていくしかないと思う。英語の講義がたくさんあるようだ。やはり英語なのだ。避けられないねえ。若い頃にもっと英語をやっておけばよかったなどと後悔してみても始まらない。今からやればいいのである。ガッツで行こう。


2011-05-11(Wed) [長年日記]

_ 雇用保険説明会

池袋のハローワークで雇用保険からの失業給付受給者のための初回説明会が実施される。参加した。かなりの人数。毎日のようにこんなにたくさん失業者が量産されているのか。ぼくもその一人。前後左右の人の受給者証を盗み見る。けっこう四五年で自己都合退職している人が多い。したがって受給日数も90日とかその前後。ぼくみたいに20年以上勤めていて、300日以上の受給日数を持っている人は少ないようだった。定年退職者は別だが。

およそ二時間近い説明会。ビデオと口頭説明。不正受給をしないように…という話が多い。後を絶たないのだろう。どんな仕事でもしたときは必ず申告するようにと何度も言われる。説明した係官は不正受給を調べて摘発する係なのだということだった。

区役所でも国民健康保険や国民年金の加入手続きをした。会社がなくなれば、全部自分でやらなくてはならない。前年分の所得に対して住民税を一年間持って行かれるのもちょっと痛い。抑制を効かせながらやっていこう。

_ 手紙のやり取り

北九州の父とときどき手紙やハガキをやり取りする。父は歳を取ってからずいぶん小さい文字を書くようになった。こんな豆みたいな字を本人読めるのか??みたいな。でもぼくはちょっと大きめの文字で書く。母は糖尿の影響で視力がかなり落ちているからもうほとんど字は読めない。おそらく父が音読して母がそれを聞いているのだろうと思われる。

ちなみに母は最近一般病院に転院したようである。CCUの毎日は綱渡りだったが、なんとか快方に向かっているようだ。陽気もよくなってきているしよくなる一方だと思う。こういうのは思い込みが大事なわけで、よくなるしかない、よくなるに違いない、よくなることしか考えられない、とそう思っているとほんとによくなるから不思議だ。がんを吹き飛ばした人たちはたいていそう考えて、それが実現している。われわれは回復するはずなのである。

最近はここにも書いているように、ぼくの身辺は電撃的とも言えるよいことばかりを伝えているので、父は喜寿を越えいま78歳だが、ますます元気に生き続けるであろう。母も病気を吹き飛ばしたようだし、ぼくもますます充実していく。悪い知らせばかり知らせていた18年〜20年前に比べると、いまは本当に親孝行できると思う。


2011-05-10(Tue) [長年日記]

_ 駒場の授業

井の頭線駒場東大前はぼくの大学生活の始まった昭和60年を非常に強く思い出すロケーションだ。教養学部があり、一、二年生が集まる若さ溢れるキャンパスである。ここで2年間一般教養を学んでから本郷の専門へ進む。

教養学部物理教室の授業を聴講することにした。そのものずばり「放射線科学」である。自分の専門をここで最初から学ぶのは非常に意義があると思う。放送大学でやっておきたかったところだったが、もう東大に戻ってしまったのだから、東大の中で一番基礎となる場所で聞けばよいことである。

鳥居先生について学ぶことになった。単位の話やマスコミ報道の件から入る。累積の当量と一時間あたりの微分的当量を報道が混同しているという話。定番のベクレルやシーベルトの話。蛍のたとえなど。まずはやはり放射線と放射能(放射性物質の能力)の話からである。

周りをざっと見るとおそらくほとんどが10代の学生さんたちである。こちらは今日いろんなクラスから集まっていると見えてとても静かだった。ほとんどが理科一類のみなさん。先生も理科一類出身で理学部ドクター卒のよう。ぼくは先生より四年前に理科一類に入っていることが判明。でも専門分野から離れていた時期がぼくは長かったことを考えると、頭を低くして謙虚に学ぼうと思います。モルやアボガドロ数、やはり計算で出てきた。一般教養を学びなおして損はない。

授業が終わって駒場東大前に向かうと、同じように5限目が終わった学生が一斉に駅に押し寄せている。朝ラッシュ並みの激混み井の頭線に渋谷まで乗車。懐かし過ぎるこの感じ。下北沢で麻雀というパターンも多かったが、今はぼくは行くところがあるのでそうはならないが。楽しい学生生活。


2011-05-09(Mon) [長年日記]

_ 工学部授業開始

震災の影響で少し遅くなったが工学部などの授業が今週から始まった。放送大学の面接授業などで「学生として授業に参加する」のは予行演習していたので、まあそれほど戸惑いもない。20年来教壇の側にいたので、先生の立場もよくわかる。先生の話が始まったら私語をするんではないぞ学生諸君。おれが代わりに怒鳴ってやりますよ、関村先生、って感じです。

月曜初日は関村先生の信頼性工学の授業に参加。工学部四年の授業である。今は当然ながら全部パワーポイントでのプレゼンである。数式や関数が出てくる。理系の授業なのでこれも当然。簡単な微分方程式。積分記号。なつかしいなあ。でも郷愁に浸っている暇はない。課題が出された。さあ計算だ。簡単な算術計算だと思っていたら、考え方次第で数式が違ってくることに気づく。帰納法的に残っているものの中からどうするとか、統計的な手法に何種類もアプローチがあることに気づかされる。電柱から電柱に向かっているときに、電柱は2本だが、間の隙間は一区間しかない、とか。故障が発生すると故障しなかったものが母集団に変わる、とか。悪戦苦闘しているとあっという間に終了時間。やっぱし微分方程式の感性が必要なのだ。

翌日工学部図書館でかなりの時間をかけて文献、理論書、演習書などを探し歩く。読めば読むほどいろんな人がいろんなアプローチをしていることに気づく。品質管理の学問なのだった。一定の解答も自分なりに見つかる。ほっとひと段落。

東京大学工学部の授業は21年ぶりだった。あのころは聞いたら聞きっぱなしで漫然と受けていた。若かったから吸収効率が良かったし、それでよかったのかもしれないが、いまは有り難味がわかる気がする。欧米並みに40代50代の社会人経験者が続々と大学に戻って学べる社会環境が必要だと思う。運命のいたずらでたまたまそういう境遇になった自分は幸運だったのかもしれない。


2011-05-08(Sun) [長年日記]

_ 連休最終日

昨日までの寒さが嘘のような好天気。ひとりバイクを飛ばして神宮球場へ。東大・明大戦。客席に試合開始四十分前から入っていたが、すでにすごい盛り上がり。応援部の力なのは間違いない。

2時間ばかり応援し続けるが、八回ウラまで見て0vs2だった。移動の時間が迫り、九回を残して退場。後でWebを見たら九回表に明治から2点入れられて0vs4で負けていた。残念。今回も満塁残塁あり。惜しいところだ。

_ 大学院説明会スタート

東京大学の大学院入試は8月から9月に集中している。したがって逆算すると6月ごろから願書受付、5月はその説明会シーズンである。今日はその封切りとも言えるスタート。まずは新領域創成科学研究科の環境系専攻の入試説明会であった。来年定年退職となる岩田修一先生は、ぼくのいた核燃料工学研究室の教授であった。しかし先生の退官と同時にその研究室が来年はなくなると判明。知ってる先生のいない大学院となる。柏キャンパスまでわざわざ行く必然性もなくなるわけだ。

しかしまあともかく資料を受け取り検討しよう。本郷の工学系研究科が本命だが、併願可能で理工系のものは積極的にチャレンジしてみよう。

全講義を英語で行なうという、ハードルが高くノイローゼになりそうな専攻もあるらしい。国内留学ですな。


2011-05-07(Sat) [長年日記]

_ ラスト近づく

けだるい朝。こういう朝を味わうのは30代の頃以来だったろうか。仲間からの電話の着信で起きる。といっても10時を過ぎているのだ。仲間の声はとても元気でこちらはけだるい気分だが、なんとかテンションを合わせる。まあ相手も察知しているが。

あいにくの雨が続く。でも暑かったらもっと体力を使っていたかもしれない。天候が悪いくらいのほうがゆったりできる。予定していた神宮観戦はパスし、屋内巡回の一日にする。池袋のサンシャインシティへ。両親が上京してきたときに水族館へ連れて行った覚えがあった。展望台からは霧に霞んだはるか都下が見渡せる。高速道路と高層マンションが印象的。やはり緑地が目につく。都心の霊園や公園は貴重な資源かもしれない。あとカラオケやって、仲間と会って懇談。連休がもうすぐ終わる。


2011-05-06(Fri) [長年日記]

_ 上野不忍之池(しのばずのいけ)

本郷の東京大学の裏手を東大病院から降りていき、根津と湯島のあいだを坂を下ると上野公園の外苑に至る。広大な不忍之池が眼下に広がる。広い池にはボートのりば。ボートをこぐのは修学旅行と思われる女子高生たち、定年退職後に時間を持て余していると思われる初老の男性、30代くらいのカップル。連休の合間とはいえ、平日の昼間にいる人たちはちょっと事情がある人たちである。

都心の一等地にこれだけの空間が拡がっているのは不思議な感じだ。上野は恩賜公園なので国有地なのだろう。もとより東大のキャンパスもそうなのだが、そのおかげで緑や水がふんだんに触れられるのは良いことなのかもしれない。

_ 学科ガイダンス

入学した学科のガイダンスに参加する。20年以上前に授業を受けた先生たちが次々と現れる。開始前に席を立って挨拶に行くが、研究室が違うとあまり憶えておられないようだった。自分も長いこと教員をやってきたので、何年も前の教室の一生徒を記憶していないのは仕方がないとも言える。

やはり学部学生の皆さんは若いねー。21〜24くらいなのだから当然か。2まわりくらい違うのだから当然だろう。彼らの中に混じってこれから授業を受けたり研究をしていくのは、なかなか骨が折れることかもしれないと思うこのごろ。

_ 佐野へ

栃木県の佐野へ。2003年の後期地域代表だったときに、宇都宮で広報フォーラムを開いた。その当時の旧知の仲間が佐野で会場を開いている。厄除け大師のある町。JR関東のバスで王子から直行した。職場の前(明治通り)をいつもこのバスが行き来するのを就業時間や昼休みに見ていた。いつか乗って旅に出たいと思っていたものだ。

佐野バスターミナルから駅までかなり離れていることに到着してから気づく。時間設定がギリギリだったため、会場には遅れて到着。しかしながらベーシックでグループの一体性が感じられる良い雰囲気であった。

終了後ファミレスで会食。来し方行く末を思う話題。小一時間話して仲間から暗い国道を栃木駅まで送ってもらう。東北本線を赤羽まで南下し帰宅。たぶん上りで直通する最終電車ではなかったか。次が大宮行き最終だったし。自宅には深夜一時ごろ到着。長い長い一日だった。


2011-05-05(Thu) [長年日記]

_ つくばと柏

茨城県と千葉県近辺。国立の研究所や学術機関が軒を連ねる。幕張やお台場などの最近の人工的都市計画は、こちらをモデルに作られているのかもしれない。すこし離れた場所に行くと鬱蒼と木が茂り、林の中の小道を進んでいるように感じる。長野県や山梨県の感じ、あるいは清瀬のあたりの国立施設が連なっているあたりの感じにも似ている。

東海村もそうだったが、このあたりにくると自動車が必要だと感じる。四輪運転ブランク20年以上。今から始めても遅くはないと思うが。

柏の葉キャンパスにまで来ていながら、東大の新キャンパスには入れる時間もなく東京に戻る。しかし北千住からそれほど離れていないこともわかった。またの機会を。


2011-05-04(Wed) [長年日記]

_ シャツ新調

アズキ色ストライプのシャツを買う。連休に備え靴も買った。見た目や気分は重要なことである。古いものを捨てていく勇気も欲しい。こういうことがきっかけで部屋の中にある何年も使っていないガラクタを捨てられることがよくあるのだ。仲間がシャツを昨日買っているのを見たのも大きかったかもしれない。幸福の連鎖。自分もあやかりたい。仲間たちにも広げたいものである。


2011-05-03(Tue) [長年日記]

_ 水もしたたる良い男

雨の予報には気づかずに今朝家をバイクで出た。日中仲間とステッププログラムの分かち合い。またこれで一人完了。充実感で一杯だ。明日また点検をする。きょうは四時過ぎに終了。

少し雨が降っている。井草から中野までわずかな距離だ。バイク置いて電車で行くか。でも夜はやむかもしれない。少し葛藤したが小雨なので、20分くらいですっ飛ばせば移動できるだろう……と考えたのが運のツキである。

早稲田通りをひたすら東進。だんだん雨足が強くなる。やばいなあ。するとほんの数分で一気に本降り。なすすべもなくずぶ濡れである。逃げようがない。あーあ。このまま中野のミーティングに出たら風邪引くと思い、自宅へ進路変更。そしたらすごい豪雨である。なすすべもなく……が続く。からだごと三四郎池に飛び込んだような状態で自宅到着。速攻で裸になりお湯シャワー浴びる。死にそうだった。ベランダに干してあった洗濯物もずぶ濡れ。しかも風で飛ばされて土間にぐっしょりと落ちているTシャツ。

こんな日もある。全身でかばったかばんの中のビッグブックは一滴も濡れていない。奇跡的だ。ぼくのソーバーは安定かもしれない。

_ 清志郎三回忌

あの偉大なロッカーが亡くなってから丸二年で三回忌である。永遠にぼくらの中で生きるあの歌声。考えてみたらあのときから一人カラオケに走るようになったんだよなあ、とか。カラ館のJOY SOUNDよりも第一興商のDAMのほうがRCサクセションや忌野清志郎の選曲は多い。たぶんカラ鉄が最多である。昭和57年ごろリリースされたアルバム「OK」の中のOh!Babyとかが最近のお気に入りである。「一緒に暮らそう、ぼくと二人で、ふさわしい家を、探して住もう」。あまり書くとJASRACに怒られそうなのでやめておく。

病気から復活した2008年の武道館ライブに行かなかったことが、いまも心残りである。時計の針は不可逆進行である。後悔先に立たずじゃ。やりたいことをやるんだよ。願ってきたことはみんな実現する。キヨシローが教えてくれたのだ。


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