30日に引っ越した。今日はときわ台駅からの初出勤である。東上線の各駅停車は西武や京王の各停並みの快適さだった。さあそして地獄の山手線内回り。池袋からの新宿方面は死ぬほど人が乗っているので、回避して今日は副都心線に乗ってみる。通勤急行が来たのでまずは見送る。しかし、え?なんでこんなに空いてるの?って感じ。そして副都心線各停が来た。目を疑う。100%切ってるのではないか。立っている人が殆んどいない。しかも空席すらあり。親子がどちらが座るかで話し合っているのどかな風景。平日の池袋、朝8:33ですよ。こんなことあるのか。8/1って、みんなが有休取る日だったりして。あーこんな天国のようなガラガラの通勤電車なら毎日でも乗りたい。来週の月曜以降も同じかどうか確かめてやろう。
春の学期中はここにも書いたが、ドイツ語、フランス語、イスラム圏、人類学などを学んだ。夏はちょっと趣向を変えて、沖縄、原子力発電、天文学などを選択した。身近な分野、まるで日常と接点がない分野、一時は専門だった分野などいろいろあるが、改めてまたじっくり時間と場所を設定して学んでみるといろんな発見がある。しかも授業料を払って聞くということが大切なのだ。書店で千円、二千円の本を買って読むのとはまた違う。放送大学の授業は民間のカルチャースクールよりは格安だが、それでも一科目(5コマ)で5500円はする。全部吸収したいという気持ちが高まるのである。
原発の状況はやはり20年前とは隔世の感がある。高速増殖炉は頓挫しているようだし、海外とくにフランスが牽引力を失っているのは大きい。六ヶ所村の再処理施設はとっくに稼動していると思い込んでいたが、いまだに???な状態のようである。北朝鮮の状況にも影響されているのであろうか。日本の技術力をもってすれば、プルトニウム爆弾の製造などは簡単であろう。でも世論や法律がそうはさせないのだと思う。安保や基地問題、そして沖縄が絡み合っているのだ。ぼくはいままでなんと無関心に生きてきたことだろうか。
そして天文学に触れると、生きていくこの時間のことを思う。どうせだったら、やりたいことをやっていこう。大人なんだからやりたくないことをしなければならないときもあるが、わざわざそれを選んでいくことはしないでもいいのだ。「ディープインパクト」を見たときに二輪免許を取りたいと思ったように、宇宙の動きに触れると自分の動きも検討したくなる。方針自体を考えたくなったら、ちゃんと「哲学」の勉強まで用意されている。やってみる時間はまだまだたくさんある。
今まで何回か、回線事故やルーター不全でサーバーがストップする事態はあったが、今回のようにサーバー本体が起動しなくなる事故は初めてだった。
休暇中の8/12に学校の事務長から連絡があり、電話で対応。スイッチを入れてもエラー音が鳴るだけでBIOSすらディスプレイに表示されない事態らしい。
折しもスクーリング(しかも集中授業で日中動けない)が始まったところで、授業終了まで待っていただき、金曜夕方に駆けつけてみた。
状況は深刻で、コンピュータはまったく反応のない状態。というか、スイッチを入れれば電源ユニットは動いているのだが、ディスプレイは暗黒のままである。フロントパネルを開けて中を覗くと、すごいことになっている。十年分のほこりがたまっているのである。職場の本校舎は、明治通りに面したところにある。事務局は受付を通して外気と触れ合っている。自動車の排気ガスによるばい煙がすごいのだ。ぼくも事務局に机をもっていたことが六年間ほどあったのだが、一週間も休暇を取って出勤してくると、机の上はうっすらと黒いすすが積もっているのであった。
そんなわけだから、常に電源やCPUの熱を吐き出し、その分外気を吸い込むコンピュータ内部というのはすすだらけである。これで今まで故障しなかったのが不思議なくらいだ。
この月曜に出勤して、コンピュータ本体を解体してみた。紙おしぼりでざっとほこりをふき取る。まあそれだけでも動きそうな気がしたが、現実は厳しい。
BIOSすら動かないときというのは、CPU、メモリ、電源ユニット、マザーボードの接触不良やショート、そのくらいが考えられる。ひとつひとつ試してみたところ、メモリでビンゴであった。代替SDRAMを差してみたら見事起動。最悪FreeBSDの再インストールまで覚悟していただけに、ほっとした。面倒なソフトウェア作業をほとんどしなくて済んだからである。
10年前のサーバーながらなかなか健闘していると思う。CPUはPentium2でメモリはPC133のSDRAM、HDDはWIDE SCSIの4.3GBである。いまやそんな容量はUSBでも数千円だ。でももう少しこのサーバーにがんばってもらおうと思う。
昨年末で全体サービスの役割が終わってから、遠出をすることがめっきり少なくなった。以前ではあまり考えられないことだが、日曜に何もすることがない日がとても増えた。スクーリングなどでまたそれも埋まってはきたが、あちこち出歩かないのは少し寂しいものである。
しかしながら、今年に入ってからを振り返ってみると、五月に山梨へ、また六月に沖縄へ、そして仕事やスクーリングで群馬へ、と考えたら役割には関係ないがぽつぽつ動いている。八月末には九州の実家に帰り、十一月の上旬には札幌でのフォーラムに参加してみようと思っている。最近はJALのチケット発売が二ヶ月以上前からスタートしているし、各旅行会社が価格競争をしている関係上、閑散期だとびっくりするくらい安く動ける。沖縄への四人ツアーは一人あたり往復25,000円だったし、今度の札幌にしても一人往復プラスシングルホテルつきでやはり25,000円だ。片道三万円近くで設定されているあの航空運賃の定価というのはいったい何なのかと考えてしまう。しかしながら競争のない路線(たとえば出雲とかつい最近までの北九州とか)はいまだに片道20,000円を超える。この不公平運賃を何とかできるのは国しかいないと思うのだが、国土交通省はどうにか動いてくれないのだろうか。
よく話題になる路線である。武蔵野線。北朝霞から新秋津までの10分少々を往復した。電車の間隔が長い。10分以上待つ。なんと待ってる間にコンテナが延々連結された貨物列車が二本も通過。旅客本数増やして欲しいなあ。かなりの客が乗っているのだから、増やしても損はないと思うんだが。
あと駅間も長い。北朝霞・新秋津間で160円区間(10キロ未満)が、次の新小平まで乗り越すと一気に290円に跳ね上がる。数年前の冬の寒い日に、(ひと駅だから…と)仲間と新小平から新秋津まで歩こうとしたが、えんえん続く冬の道。途中で諦め東村山から西武線に乗ってしまった。
結局JRと他の私鉄を乗り継ぐ格好になるので、一見ショートカットに見えるが運賃は決して安くない。まあ駅数が少ないので、私鉄の準急電車並みのスピードがある感じはするけれど。
多摩へ行くときはこれからちょくちょくお世話になるかもしれない。
村上春樹の名作小説を読み進めている。実は20年前は、本郷三丁目のパチンコの景品で取ったハードカバーの「ノルウェイの森(上)」を持っていたのだった。あの真っ赤な単行本である。読まないまま学校を卒業し、九州電力に行くときもそれを持ったまま行ったが、結局読まなかった。いまあの本は福岡の実家の本棚にあるかもしれないし、あるいは捨ててしまったのか、記憶があやふやである。
それをここへ来て、なぜ読みたいという気持ちになったのだろうか。板橋区に引っ越してから、小茂根図書館で貸し出しカードを作り、真っ先に借りたのである。内容もまったく下調べのないままだ。
上巻は読み終えた。実はぼくは村上春樹は何篇か読んでいる。あの妙に薄っぺらな感覚が甦ってくる。薄っぺらというのは批判ではない。日常的にぼくたちが持っているリアルな薄っぺらさなのだ。そして主人公は昼間だろうと何だろうとビールやワインを飲む。これがイヤでここ十年くらい村上作品から遠ざかっていたんだっけ。
メジャーどころはメジャーな理由が必ずある。みんなが支持しているからだ。ぼくもいくらか普通の薄っぺらな生き方がしたいと思うようになったのかもしれない。
というわけで、ものすごい勢いで「ノルウェイの森」読了だ。なんとも言えぬ読後感。後悔とか悲観とか、なんかそんな一枚舌で書きにくい。作中でたびたび登場人物が語っているとおり「うまく表現できない」のだ。あまり書くとネタバレになるのでやめておくが、自殺をモチーフにするのは過去の自分を見ているようで、なんともよろしくない。自殺を美化するのは社会的損失だと思う今日この頃。
もっと軽く恋愛していいのかもしれないなあと思う。軽快なタッチなので、それが薄っぺらさを演出するのであろう。簡単にセックスするし、簡単に酒を飲む。中国で大人気なのはこれが原因か? でもたしかに村上春樹にしかない引き込む力、今回も感じた。
14年くらい前に途中まで読んでやめた「ねじまき鳥…」を再度読むべきか、それともほかの作家のものに移るべきかちょっと悩む。時間は有限だからだ。