仲間が亡くなり告別式。52歳はまだぜんぜん人生の途上である。間質性肺炎などという、いまだ治療法のない病気がこの世にたくさんあるのは憤慨ものである。病床へ三回ほど見舞いに伺えたのは幸いだった。
キリスト教式での告別式で、施設長の説教の中で「備えられた場所へ行く」という話であった。また、先に彼はそこへ行ったのであって、われわれも必ずみなそこへ行くのだから、再会の時が必ずあるということである。送る側であったが迎える側になる日が来る。仲間が悲願であったことを、自分がある程度は代わってやっていきたい。最後の何年間かを一緒に生きられたことをありがたく思う。ぼくの再生に力を与えてくれた仲間の一人でもあっただけに、より強く冥福を祈りたい。
七月に続き駒場の教養学部でTOEFL ITPの団体受験。八月末の大学院入試の際の受験も含めると、今年になって三回もこの試験を受けている。だんだん傾向やコツもつかめてきたが、やはりTOEICや英検に比べるとレベルが高いと思う。
やられっぱなしでなかったし、リスニングもちょこちょこと単語が拾えるようにはなっているが、即答を求められる度合いが強いと思う。リーディングの材料、とくに長文は文字が小さいうえに分量が多い。精読して問いに答えている暇がなく、問いを読んで答えを探している感じである。
時間的にはTOEICとほぼ同じ。打たれ続けながら、強さを増していきたいものである。
文京学習センターで放送大学の面接授業。すごくきれいになっていて感動的。しかも筑波大学の図書館が共通で使える。ロールズの正義論もらくらく借りられてうれしい。
先日も法務関係の授業を受講したのだが、今回は教育社会学の面接授業を受講。教育学はあらゆる分野の知見の集大成かも知れない。自分の働きどころもあるかもしれないということを感じる。
子ども時代をもう一回生きることはできなくても、勉学は何回でもやり直せる。放送大学は永遠だ。この制度の存在は、ぼくをインスパイアしてくれたきっかけであった。
今年も歳の暮れが迫る中、誕生日がやってきた。46歳である。失業と東京大学と結婚生活の中での年齢加算。なんとも複雑な気分である。思うようになかなかならないことが、ぼくの人生を楽しくアレンジしてくれる。いったいぼくはこれから先どんな暮らしをしていくのだろうか。必要なことをしていくのか、したいことをしていくのか、あらゆることが神様のはからいにより、うまく統合していくとよいと思う。
夏のパーティーでウェディングケーキを注文した本郷の近江屋洋菓子店で、今日はバースデーケーキを買って自宅に帰る予定。
先月末に受験したTOEICテストの結果がわかった。前回テストから50点スコアアップして505点になった。ようやく400点台から脱出できた。アルクの教材学習はカリキュラムの半分を越え、英語耳が少しはできてきたのかもしれない。先日iPod nanoも購入したので、ボキャブラリーレビューやダイレクトインプットアンドアウトプットも持ち歩いて聞いている。街角で外国人から話しかけられるとなぜかうれしい。ハイレベルの人たちからすれば500点なんてことは何てことないスコアかもしれないが、ぼくには着実にレベルアップのエビデンスとして手ごたえがある。アルクのカリキュラムは650点を目標に作られているので、是非とも次の進捗を目指して進めたい。
昨年に引き続き応援部吹奏楽団の定期演奏会を聞きに行く。音楽の夕べ。華々しいステージ。ぼくが現役学生の頃はバンド活動だけだったので、こうした一体性は味わえなかった。でもいまはお客さんで十分という感じもする。
検定づいている勢いで受けてみたが、1級は不合格であった。いきなり準備なしで最上級受験は無謀だったかもしれない。十年以上前に専門学校で三級の受験指導などをしていたのだった。でも自分が受けてみると話は別。当事者かどうかという問題である。
年末に向けて数学の演習の追い込みである。線形代数と微分方程式を徹底的にやる。線形代数は固有値や固有ベクトル、対角化、三行三列の逆行列と余因子展開、ジョルダン標準形、ケーリーハミルトンの定理などをマスター。微分方程式は同次形、特性方程式、定数変化法、ベルヌーイの方程式などをマスターしていく。やってもやっても奥がある。そして妙なところでつながっている数学の奥深さが神秘的である。
半年くらいかけてようやく、昔数学IIIで学んだ置換積分や部分積分の感覚がよみがえってきた。訓練につぐ訓練しかないと思う。ローマも微積分も、一日にして成らず、である。
● つくし野のおざきです [私も必要に迫られて、実は飲んでいる真っ最中にアルクを愛用していました。飲まなくなってからやれば、もう少し成果が出たか..]