第77回メーデーに参加。全労協と区職系は日比谷から新橋のコースなのだった。暑い日。毎年のことだが、みなさんは、昼12時からすでに飲み会に突入。ぼくはもちろん飲み会は参加せず帰ってきます。
高田馬場に戻って餃子の王将でランチを食べて、直帰。うーん、半日がまだたっぷり、余りある感じ。Webの仕事をし、ここ数日の棚卸し、そしてすこし昼寝。夜は池袋でプログラムである。
きょうは気温30度近くまで行ったらしいね。上着を着なかったのは久しぶりかも。
われわれの間では「ビジネスミーティング」とも呼ぶ。無償でもらったサービスを無償で返すのが方針。きょうは少し延びて、およそ2時間近い議論となった。
やっと冬物を片付ける決意ができた。緑も萌える季節。欺瞞や正義について、最近よく考える。思索と散歩が気持ちよい。ああ、連休。
代々木でセミナー。古い仲間の経験には力がある。説得力と希望の力。たくさんもらった。実践あるのみ。
仲間の節目の記念日。九周年。素直に喜び、そして祝う。ぼくたちには友達が必要だったんだ。与えられている現在に感謝。
サーバー遅延対策でダブっていた日記を統合し、また、改行コードなどが不統一だった(Linuxを使っていた時期が三年くらいあった)のを、Windowsに最適化。そして明らかに「書いて公開してるとまずいようなもの」を自己検閲。けっこうあるんだよねー、犯罪スレスレなものとか、職務上問題あることとか(笑)。
まあ、ブログの書き込みペースはあまり上げられないとは思いますが、のんびり見守ってやってください。
あ、それから、最近では「kiyochan」とか「キヨシ」とかってどこに行ってももう使ってないんで、本名で「森田さん」で、自助グループでもやってます。したがって、伝統上、ここでは自助グループの名称が書けませんので配慮くださいね。
夕方、労組上部団体の執行委員会であった。昨年末より、執行委員となったのである。わたしはそんなにやり手なタマではないので、名前に負けている気もするが、それなりに順番が回ってきたということで、地道にやっていこうと思う。
少々へこんでいたことも事実だったのだが、大きく振りかぶって、また元気を出していこう。同じ間違いを繰り返さないこと、物事に正面から向き合い取り組むこと、そして棚卸しと埋め合わせを徹底してやること。それで必ず解決していく。これまでもそうだったし、これからもそうであろう。そして、過去にも何度か書いているが、祈りは通じるのだ。祈り続けていることは、すべて実現してきた。すごいことだよ。
定期的に自分の生きてきたことについて、在庫整理をするプログラムである。今回は、いま困っている問題について、スポットとも言える棚卸しをしているのであるが、書いてみると、自然と、いろいろと芋のつるのように出てくるのである。そして、これをもう一人の人と、正直に話し合う必要がある。そうすればもう、解決方法は見つかったも同然。そして、自分を変える努力、変えられないことがわかり祈る、さらに埋め合わせをしたいという気持ちになり、それを実行する…という段取りである。あープログラムは順番によくできている。やっているうちに気づくのは、この行程は、次々に奇跡をもたらすということなのであった。
正直に話し合える仲間を持って、ほんとうに助かっている。むろん、ぼくは理想に近づきたいとは祈っているが、神様の与えてくれているたくさんの指標までは達することはできない。step6のところにいるのだと思う。
問題点を話し合っているうちに、自然と答えが見つかる場合も多いのだ。あと「自分が本当はどうしたいのか?」とかね。実は…とか、口実はともかく、こうなってほしいとか、子供じみた考えはたくさん浮かんでくる。
まあしかし、自分はまだまだこんなものだ。
昨日のメッセージのテーマは「奇跡」であった。なんか宗教くさい響きもあるけど、われわれがこうして健康的に、そして文字通り健康に生きているのは、奇跡以外の何ものでもない。そしてこれは、自分で切り開いたりしたものではなく、まさに「与えられた猶予」であると思う。伴走者もまた一人増えた。助けるのではなく、助かる契機をもらっているという感じが最近する。
妄想にならない程度に、いまのこの、積み上げてきた生きている実感をかみしめていきたい。
2月前半に、職場の先輩が脳内出血で他界してから、どうも自分も影響を受けたのかもしれない。明日のことはわからないし、ならば今、できることをやるしかないではないか。マイナスに考えるのではなく、やりたいことから順番にやっていこう…とか。たしかに自分に都合のよい考え方もかなり入っているとは思うが、40過ぎて折り返しに入って、貰いに貰ってきたかずかずを、今度は要らないものを捨てて、そして、これだけでよいというものを探したくなってきたのである。
きょうで終わっても、何も問題ない…くらいに達観できればよいが、煩悩具足のわれわれなので、悔いてばっかしだが、ピーター神父も言われているように「きょうのわたしはこれだけでした」と、その日を生きられたことに感謝したいのである。
ちょっとしたことで、非常に高揚したり、一気に落ち込んだりすることのたとえ。メールが飛んでくるたびにドキドキしている。高校2年の頃のようだ。
君はこれで何が買える? しかも二時間以内で使い切らなくてはならないとしたら。ぼくにはわからないよ。毎日あるだけ使えていたあの頃が、また懐かしくもあるが、戻りたい気はしない。