連休明けにしては、ちゃんと働けたし、義務も果たせたと思う。もちろん「仕事は二の次」を強く意識しながらの話だが(笑)。わたしはいかにも仕事に力など入れてないように言い続けているが、それでも12年の勤続を続け、もう二年少々で年齢的にも40代を迎えることになるのである。
だが、わたしの欲しいものは、別のところにあるみたいである。仕事がいつしか奉仕の手段になるのかも知れないが、今はまだみたい。
サーバー遅延対策でダブっていた日記を統合し、また、改行コードなどが不統一だった(Linuxを使っていた時期が三年くらいあった)のを、Windowsに最適化。そして明らかに「書いて公開してるとまずいようなもの」を自己検閲。けっこうあるんだよねー、犯罪スレスレなものとか、職務上問題あることとか(笑)。
まあ、ブログの書き込みペースはあまり上げられないとは思いますが、のんびり見守ってやってください。
あ、それから、最近では「kiyochan」とか「キヨシ」とかってどこに行ってももう使ってないんで、本名で「森田さん」で、自助グループでもやってます。したがって、伝統上、ここでは自助グループの名称が書けませんので配慮くださいね。
一般ファン向けの告別式が青山葬儀所で行なわれた。ネットなどマスコミにも発表されているようだが、参加者43,000人、入場待ち行列は8kmにも及んだ。ぼくは友人と15:20に列に並んだのだが、乃木坂駅から葬儀所の入口までくねくねと列が折り返しており、進んだり止まったりで、葬儀所に入場できたのは20:00過ぎ。葬儀所内でもくねくねと列が続き、祭壇にたどり着いたのは20:30であった。五時間待ちの行列だった。
音楽葬で「青山ロックンロールショー」とアナウンスされていた。祭壇には骨壷と位牌、キヨシロー生前愛用の有名な自転車、ギターなどが多数展示されていた。香典を納め献花をし、歌いながら会場をあとにした。祭壇はロックショーさながらで赤や黄色の原色の色使いで、葬式特有の湿っぽさはほとんどなし。でももちろん喪服で訪れる人は多かった。ぼくらは普段着だったけれど。
キヨシローがよく描いていたウサギのキャラクターマスコットも巨大なタイプで登場、でもこれはライブで使われたものらしい。しかし会場を圧倒していた。古いポスターも並べられており、20年以上前の時代を偲ばせる。やはり永遠のロックスターである。
震災の影響で少し遅くなったが工学部などの授業が今週から始まった。放送大学の面接授業などで「学生として授業に参加する」のは予行演習していたので、まあそれほど戸惑いもない。20年来教壇の側にいたので、先生の立場もよくわかる。先生の話が始まったら私語をするんではないぞ学生諸君。おれが代わりに怒鳴ってやりますよ、関村先生、って感じです。
月曜初日は関村先生の信頼性工学の授業に参加。工学部四年の授業である。今は当然ながら全部パワーポイントでのプレゼンである。数式や関数が出てくる。理系の授業なのでこれも当然。簡単な微分方程式。積分記号。なつかしいなあ。でも郷愁に浸っている暇はない。課題が出された。さあ計算だ。簡単な算術計算だと思っていたら、考え方次第で数式が違ってくることに気づく。帰納法的に残っているものの中からどうするとか、統計的な手法に何種類もアプローチがあることに気づかされる。電柱から電柱に向かっているときに、電柱は2本だが、間の隙間は一区間しかない、とか。故障が発生すると故障しなかったものが母集団に変わる、とか。悪戦苦闘しているとあっという間に終了時間。やっぱし微分方程式の感性が必要なのだ。
翌日工学部図書館でかなりの時間をかけて文献、理論書、演習書などを探し歩く。読めば読むほどいろんな人がいろんなアプローチをしていることに気づく。品質管理の学問なのだった。一定の解答も自分なりに見つかる。ほっとひと段落。
東京大学工学部の授業は21年ぶりだった。あのころは聞いたら聞きっぱなしで漫然と受けていた。若かったから吸収効率が良かったし、それでよかったのかもしれないが、いまは有り難味がわかる気がする。欧米並みに40代50代の社会人経験者が続々と大学に戻って学べる社会環境が必要だと思う。運命のいたずらでたまたまそういう境遇になった自分は幸運だったのかもしれない。