予定通り、施設へメッセージ。また新江古田→江古田を歩いた。定例パターンになっている。きょうは清瀬から東京病院前までをバスに乗った。初めてかな。交通費にケチなわたしがバスを使ったのは、たまたま電車を降りたあたりで仲間からメールが入って、返事を書くのと歩くのとは両立できないと思ったからである。そう、自分は何かしながら別のことをするというのがなかなかできない。食べながら本読んだりTV見たりもできないのだ。音楽聞きながらメール打ちながらハンバーガー食ってる人なんて見ると、この世の技か??と思ってしまう。
清瀬の話だった。施設メンバーが最近多い。春を過ぎ、これから自立への一歩ということか。自分も他人事ではないなぁ。
昼のメッセージで今日のプログラムは終わりとした。そして夜になるまでずっと家。溜っていた仕事を少しする。
他の人が手書きで書いた資料を、テキスト打ちする仕事。やってるうちに腹が立ってくる。なんでわたしがこんな仕事のために時間と労力を使わねばならんのだ。いまどきテキスト入力する機材も持ち合わせてない人間など、地獄に落ちろ…とまで思ってしまう。ま、ちょっと過激かね。
そしてまたテキスト打ち。今度は同じテキスト打ちでも、「紙の資料だけが残っていてデータがないもの」なので、再入力。そしてそれを理事会委員会で使うのだ。同じような作業なのに、全然気分が違う。つまり、仕事の単純さに腹を立てているんではなくて、自分がその仕事をやることになった経緯と人間関係に腹を立てているのであった。ああ、明解だなぁ。
城南地区の仲間の集まりによるバーベキュー大会に参加。キヨシローへの悲しみがまだ覚めぬ中、バイクで出かける。キヨシローの住んでいた自宅マンション前を通過。喪服の報道陣が詰め掛けていた。
東北沢から駒場にかけて、20代の頃によく原付でうろついたところだ。下北沢の裏町。駒場にもいろんな思い出が詰まっている。ここで仲間のフェローシップが行なわれるのはなんとも不思議な感じ。
入れ替わり立ち代わりで100数十人という発表のようだった。焼きそばもたっぷり食べてミーティングして終了。
バースデーミーティングを井荻に移して初の日。自分が司会をさせてもらった。みんなに話してもらいたいのだが、やはり半分くらい残ってしまう。しかし、感謝と喜びに満ちた、よいミーティングだった。意欲と正直さと開かれた心があれば回復できるのである。
終了後数人でお茶。話は尽きないが、きょうはここまで。この連休中ノンストップな感じ。予定はすべて与えられている。
雨の予報には気づかずに今朝家をバイクで出た。日中仲間とステッププログラムの分かち合い。またこれで一人完了。充実感で一杯だ。明日また点検をする。きょうは四時過ぎに終了。
少し雨が降っている。井草から中野までわずかな距離だ。バイク置いて電車で行くか。でも夜はやむかもしれない。少し葛藤したが小雨なので、20分くらいですっ飛ばせば移動できるだろう……と考えたのが運のツキである。
早稲田通りをひたすら東進。だんだん雨足が強くなる。やばいなあ。するとほんの数分で一気に本降り。なすすべもなくずぶ濡れである。逃げようがない。あーあ。このまま中野のミーティングに出たら風邪引くと思い、自宅へ進路変更。そしたらすごい豪雨である。なすすべもなく……が続く。からだごと三四郎池に飛び込んだような状態で自宅到着。速攻で裸になりお湯シャワー浴びる。死にそうだった。ベランダに干してあった洗濯物もずぶ濡れ。しかも風で飛ばされて土間にぐっしょりと落ちているTシャツ。
こんな日もある。全身でかばったかばんの中のビッグブックは一滴も濡れていない。奇跡的だ。ぼくのソーバーは安定かもしれない。
あの偉大なロッカーが亡くなってから丸二年で三回忌である。永遠にぼくらの中で生きるあの歌声。考えてみたらあのときから一人カラオケに走るようになったんだよなあ、とか。カラ館のJOY SOUNDよりも第一興商のDAMのほうがRCサクセションや忌野清志郎の選曲は多い。たぶんカラ鉄が最多である。昭和57年ごろリリースされたアルバム「OK」の中のOh!Babyとかが最近のお気に入りである。「一緒に暮らそう、ぼくと二人で、ふさわしい家を、探して住もう」。あまり書くとJASRACに怒られそうなのでやめておく。
病気から復活した2008年の武道館ライブに行かなかったことが、いまも心残りである。時計の針は不可逆進行である。後悔先に立たずじゃ。やりたいことをやるんだよ。願ってきたことはみんな実現する。キヨシローが教えてくれたのだ。
● junk [パン食べながら牛乳飲んでTV見ながらこれ読んだよ!]