2/9に地区のミーティング場の地図印刷、そしてそれが終わって板橋の仲間のバースデー。2/10は多摩の中間施設へ司会ボランティア、夕方仲間にステップの分かち合い、そして中野でスピーカーを聞くというスケジュール。そしてきょうは久しぶりに一日休みである。依頼されていた原稿を書いて、仲間にチェックしてもらう。夜はグループのミーティングだけだ。
明日から二日間、千葉の本部で泊まりの放送大学スクーリングである。スクーリングの日程は何ヶ月も前にスケジューリングされてしまうので、そのころどんな状況とか忙しさなのか、想像できずに日程を入れてしまう。二月の半ばなら学校の仕事も終わり、死ぬほどヒマだろうと踏んでいたのだが、やはり予想は予想でしかなかった。
ゆっくり眠れるのはいつの日か……。
この五日間くらい、朝から晩までスケジュールが詰まっている。仕事も学科ごとに最終授業が続き、ふだんなら時間できっちり終わるところも終われないケースが頻発している。不思議と仲間の中でのいろんなことも、多忙となってくる。こういう忙しさには相乗効果があるのかもしれない。
「急ぐ仕事は忙しい人に頼め」みたいな知恵があるらしい。よく仕事の生産性向上や自己啓発本に出てくる。スピードサイクルに乗っかっていると、一個の仕事が入ってくると、スタートすればあっという間である。なんせ次の仕事がいくつも待っているのだからのんびりなどしていられない。だからいいのだろう。そしてそういう時はエンドルフィンとかA10神経とか、専門的なことはよくわからないが、とにかく脳も活性化しているので、なおさらよい仕事ができるのかもしれない。
もう少しすれば乗り切れて一気に暇になるはずなのだ。それまでなすべきことをその日にできる範囲でやっていこう。
人間が成長していくとき、内側から変化していかなくては本物にならないとよく言う。そのとおりだと思う。物質的なものや金銭的なこと、あるいは特定の物事については、全体的な成長のあとについてくることだからだ。外側にあることは目に付きやすい。年収とか仕事とか家族構成とかである。そして他人の達成についてはなおさら目が行く。その人がどのような努力をし、どのように自分を磨いたり、厳しい境遇や条件を受け入れてきたかはともかくとして、である。
先日もここに書いたが、人間は自分が考えているような人間になる。そして祈りも通じる。品格のないことばかり考えていると品格のない人となるし、逆も真なりである。
職場では労働条件のことや職場での労使の関係ばかり考えてきたこの数年であった。金よりも休みや力関係だと考えていたら本当にそうなった。仲間との回復の場では、新しい仲間や新しいグループが欲しいと考えていたらそうなった。できる限りの全体サービスをやってみようと思っていたら大体できた。
もちろん、「自分のイメージしていたような形」ではない。形はあとからなんとなく与えてもらえる。そして結果を見た時点でそれがぼくの「外側」となっている。現時点での43歳の森田である。
最近は環境もとても大切だという気がしている。毎日組合の人と付き合っていると、自然と考え方も組合的になる。左翼の人たちは独特の脳みその使い方をする。ふだんその他の人たちの使わないような部分の脳を使っているのだ。また自助団体のメンバーも独特の脳の使い方をする。というか彼らは自分と同じく狂っているので(自己中心的で配慮が足りない、だけか…)、特徴的な言動があるのだ。でも中でも回復を果たして、今もなお努力している仲間には魅力がある。そういう人たちのそばにいると、根拠もなく自分もそうなれるような気がしてくるから不思議だ。考えが「移る」のである。理科系の研究室にいたときも、毎日理科系の言葉や訓練ばかりで、考え方や行動がそういう風に変化していっているのを感じた。
環境に飛び込み、考えを変化させ、日々祈り、実践する。そうすると内側が変わり、そして外側も変わっていくのである。ときどき客観的に他の人から助言してもらい、痛いところを突かれたときほどそれを取り入れよう(難しいが…)。それで人生は進んでいくはずだ。
放送大学の後期試験が始まった。経済、美術、ドイツ語、とバラバラな分野で脳がミックスされるのがちょっと楽しい。ふだんから気合入れて勉強している科目はすんなりと進み、なめてかかっていた科目は???な感じ。当然だね。日ごろから学生の皆さんに手厳しく言っていることが、みんなそのまま自分にはねかえってきているかも。いつ立場が入れ替わるか、といったことに思いが至らなくてはね。
今回はあまり欲張らず4科目しか登録していなかったので、楽に試験を乗り切れそうだ。教科書と放送による授業よりスクーリングのほうが楽しい。試験もまあまあ楽しいのだが、楽しいことだらけでしあわせかも。
先行く仲間のメダルミーティングに出席。埼玉県の小手指である。最近数年、この近辺のミーティングにはちょくちょくおじゃましている。こじんまりとした人数でお祝いのミーティングであった。
ぼくのワンデー前後のことをよく知っている仲間である。こういう仲間は自分にとって財産だ。なぜならその頃のことを考えたら頭は上がらないし、そのことが結果として自分の自我の拡大を防いでくれる。
いつもとぼけた味を出していて楽しく、しかしまじめな話の時にはきちんと話を聞いてくれる、大切な仲間だ。あとについていきます。
前のグループでのフェローシップ。埋め合わせの相手に次々と会うが、まずはスポンサーと話をしてから、である。仲間の中で生きてきたのだとつくづく実感する。時期とタイミングは慎重に進めたい。できることは少しだけやった。
新しく誰かをリストにのせてしまうような行動は避けたい。危ない場面もちょっとあった。すぐに「自己中心・不正直・恐れ・配慮の欠如」などが頭に浮かべばよいのだが。反射的な反応はよくないね。
カラオケとミーティングのオプションも選んで一日を過ごせた。まだ連休が続く喜び。
去年青色申告を届け出たので、今年の決算は久々の確定申告である。今日収入と必要経費をざっと計算したら、赤字財務になりそうだ。これでかなりの節税対策になる。
減価償却の計算があとすこし残っている。スズメの涙かもしれないが、少しでも納税額を減らしたいものだ。
御岳山荘から昨日の昼ごろ帰ってきて、大泉のミーティングに出て、一夜明ける。寒い夜だった。自転車で移動すると手指が凍りつきそう。今日は、もう営業している近場のドンキに買い物に行った。在庫が切れそうな米と洗剤を買う。米5kg、990円ってどんな米だよ。阿佐ヶ谷の安い米の記録を塗り替えた! なんか生活の水準がどんどん下がっていくなあ。電気代は今月からまた1000円を超えたけれど。
年賀状を書いていなかった人に返事を書く。プラス4枚だ。結局喪中の人の分がもとに戻った感じ。最近はだいたい40枚前後である。取引額の大きかった不動産屋からも年賀状が来ている。なんか大人になったような気分。税金の計算もそろそろやらないといけないと思うとちょっとしんどい。
地元の氷川神社に初詣。元日御岳で参拝しているので、今度は足元も、という感じ。厄年も済んでしまったし、大師まで行くことはないね。関東ではまだ成田山や佐野にも行ったことがない。時間があるときに行ってみよう。
今年の新年の祈りは、全般的な「開運」である。特定のものごとを祈らない。それはステップの祈りの基本でもある。しかし、祈っていることや考えていることというのは自分の血肉を作るから、何を祈っているのかというのはとても大切なことのように思う。その通りになるからだ。「気」や「風水」を軽視してはいかんよ。人生は自分が作っている!
きのう棚卸しと傷つけた人のリストを仲間と検討し、分析させてもらった。新しい経験である。思っていた以上にたくさんの人を傷つけているし、埋め合わせが終わっていない人も多い。それはいまも自分の心の奥に影を落としている。飲まないで生きていても、ずっとそれに引っ張られているのだ。
次のステップに向かう。そして今年も終わりだ。仲間の支えの中で新年が迎えられるだろう。自分が飲まなくなって1年ちょっとのときに参加した青梅御岳でのフェローシップに今年も参加してくる。これはもう十数年来続いている経験の積み重ねだ。事情があっていけない年もあったが、多分10回以上は行っていると思う。今年は天気にも恵まれそうだ。
年末進行で抱えていたことの大半は終えた。地区の委員会、最後のメッセージ、キャンドルミーティング、自身の棚卸し表作成、仲間への相談、グループでの忘年会、来年の手帳や日記帳の入手、年賀状の投函などなど。
あと残っているのは次のステップ、感謝の仁義、あいさつなど。すべては、しかるべきときにやってくる。身ぎれいにして臨みたい。
きょうこれから職場に行って事務的なことを済ませれば、年内の業務は終了である。世間並みよりもちょっと早いだろうか。なかなか遊んでいるヒマもなくここまで来たのが幸福のしるし。