人間が成長していくとき、内側から変化していかなくては本物にならないとよく言う。そのとおりだと思う。物質的なものや金銭的なこと、あるいは特定の物事については、全体的な成長のあとについてくることだからだ。外側にあることは目に付きやすい。年収とか仕事とか家族構成とかである。そして他人の達成についてはなおさら目が行く。その人がどのような努力をし、どのように自分を磨いたり、厳しい境遇や条件を受け入れてきたかはともかくとして、である。
先日もここに書いたが、人間は自分が考えているような人間になる。そして祈りも通じる。品格のないことばかり考えていると品格のない人となるし、逆も真なりである。
職場では労働条件のことや職場での労使の関係ばかり考えてきたこの数年であった。金よりも休みや力関係だと考えていたら本当にそうなった。仲間との回復の場では、新しい仲間や新しいグループが欲しいと考えていたらそうなった。できる限りの全体サービスをやってみようと思っていたら大体できた。
もちろん、「自分のイメージしていたような形」ではない。形はあとからなんとなく与えてもらえる。そして結果を見た時点でそれがぼくの「外側」となっている。現時点での43歳の森田である。
最近は環境もとても大切だという気がしている。毎日組合の人と付き合っていると、自然と考え方も組合的になる。左翼の人たちは独特の脳みその使い方をする。ふだんその他の人たちの使わないような部分の脳を使っているのだ。また自助団体のメンバーも独特の脳の使い方をする。というか彼らは自分と同じく狂っているので(自己中心的で配慮が足りない、だけか…)、特徴的な言動があるのだ。でも中でも回復を果たして、今もなお努力している仲間には魅力がある。そういう人たちのそばにいると、根拠もなく自分もそうなれるような気がしてくるから不思議だ。考えが「移る」のである。理科系の研究室にいたときも、毎日理科系の言葉や訓練ばかりで、考え方や行動がそういう風に変化していっているのを感じた。
環境に飛び込み、考えを変化させ、日々祈り、実践する。そうすると内側が変わり、そして外側も変わっていくのである。ときどき客観的に他の人から助言してもらい、痛いところを突かれたときほどそれを取り入れよう(難しいが…)。それで人生は進んでいくはずだ。