今年一年はかなりいろいろと走り回ったと思う。新局面が多かった。役割もそうだったし、たくさんの新しい出会い。組合もヒートアップして、当該の集会とかも経験したしね。
後悔を綴るとすれば綴れるけれども、それよりも満足感のほうがまさっていた。得がたい人間関係も少しずつ築けているし、一時は平坦にさえ思えていたプログラムもBBの登場(以前からあるにはあったけど「自分の側」になかった、ということ)によりカーブを曲がりだしたような気がするし。
いつも気になっててなかなかできなかったのは、部屋の掃除と不要品処分。でもこれもここ数日、進捗しまくっている。ゴミ出し日が遠いにもかかわらず、今日も三袋。今日に至って、ほぼ自室のすべての物にチェックが入ったという感じ。手着かずの物もわずかにあるが、年は越せそうだ。
グループの最終プログラムで、池袋の某クリニックへ。なななんと、休み。連絡の行き違いのようだった。でもがっくりくるメンバーは一人もいず、みんなで冗談飛ばしながら、喫茶店でひととき。明日行くみたけの話で盛り上がったり。
というわけで、今年はこれでおしまいです。元旦にかけて青梅市の奥、みたけの山荘へ出かけてきます。仲間とみんなで泊まって年越しです。
きのう棚卸しと傷つけた人のリストを仲間と検討し、分析させてもらった。新しい経験である。思っていた以上にたくさんの人を傷つけているし、埋め合わせが終わっていない人も多い。それはいまも自分の心の奥に影を落としている。飲まないで生きていても、ずっとそれに引っ張られているのだ。
次のステップに向かう。そして今年も終わりだ。仲間の支えの中で新年が迎えられるだろう。自分が飲まなくなって1年ちょっとのときに参加した青梅御岳でのフェローシップに今年も参加してくる。これはもう十数年来続いている経験の積み重ねだ。事情があっていけない年もあったが、多分10回以上は行っていると思う。今年は天気にも恵まれそうだ。
ちょっと大げさなタイトルかもしれない。しかし最近湧き上がる気持ちを書いてみたい。
人生にはいつも最適な答えが用意されている。それが自分にとって、以前から予測していたイメージどおりとは限らない。注意深く避けてきたものが突然現れたり、別の目的で続けてきたことが他の用途に役立ったりする。一年前、二年前にそのようなことを予測し得たであろうか。現実が立ち現れるたびに、神の意思はいったいどこにあるのかと疑いたくなることもある。状況が進むに連れ、ひょっとしたらこれでよかったのかもしれないと考えが変わることもある。
どのようなケースにしても言えるのは、他の人とのかかわりの中で解答が示されることが多いということだ。まったく違った角度からの、いっけん厳しいようでしかし客観的な愛と共感の中での意見は、大きく自分を動かすということである。そして思考は現実化する。常々考えている通りになっていくのも事実である。だから神の意思を知ることはとても大切なことだと思う。利己的で不正直な意思を持ち続けているとそのような人間になるからである。
他の人にできないが自分にはできること、他の人にはできても自分にはできないこと。これらを見極められれば、この世の中に自分が貢献できる役どころが見つかるかもしれない。特権や義務は大切にしなくてはならない。毎日やるべきことがあるからだ。それがすぐに役立たなくても、あるいは手が届きそうにないとしても、導きの手は必ず現れる。
ぼくはいろんな最近の出来事を通して、信仰を持てるようになったのかもしれない。見通しがつくようになったのはそのおかげと言える。
テキストと言っても教科書ではない。先月半ばに池袋で行われたイベントの速記録の作成である。猛烈に忙しい毎日だったので先延ばしにしていたが、大学の授業もすべて終わったので着手した。七人分のスピーカーを口述筆記した記録が残っている。これをテキスト化。単語のメモをつなぐ。妻にも手伝ってもらい、まるまる二日かけてなんとか完了。胸のつかえがおりた感じである。