非常にまったりした休日だった。どんどん起きる時間が遅くなっていく。まずい。サービスの奇跡ももはやここまでか。
午前中、すこし片づけをした。掃除。掃除好きかも。とても他人様には見せられないような物が無造作に床に並んでいるので、これらを棚にしまう。すべてキャプチャしてDVD化すれば嵩が減るのになぁ…とか。何かわかっちゃうね。
先日も書いたが、不燃ゴミの出せる日が遠い。1/7だ。だからPC小物類の整理をする気に今一つなれない。ゴミ袋に入れて置いときゃいいだけの話なんだけど。
夜、仲間と約束。高田馬場で待ち合わせ。サービス、サービス。いろいろ話し合った。
ついでにといっては何だが、プログラムの話とかも少し。動いている人はやっぱり目の色が違うなぁと思う。自分もそうしていきたい。
帰ってきたらだいたいいつもと同じ時間。この暖かい部屋で過ごせるのがささやかな幸せ。睡眠時間元に戻したいなぁ。
今年最終。ちょっとした星のめぐり合わせで、司会をさせてもらうことになった。伝統12。読み合わせで30分。分かち合い1時間。あまり長話せず、とにかく、みんなにしゃべってもらおうと努力。
ふだんあまり来ない人とかも、たくさん来ていた。年末進行である。
西武線の定期券も今日で期限切れ。六ヶ月定期で磁気券なので、かなり疲弊している。よく働いてもらった。
今は休暇期間なので、比較的よく動くからJRの定期券も一ヶ月買っている。これが一般の人とは逆なところなのだろうが、仕事が始まるまではこのJRの定期だけで過ごすつもり。
仲間と棚卸しや埋め合わせの検討。一日かけて話し合う。個別の案件なので、個別に話をするところがいい。時間をかけて仲間に奉仕するのは気分のいいものである。少しは自分も役に立っているのかもしれないと思う。年末押し詰まって公共施設を借りられないので、大学の一室を借りてやらせていただいた。
このまま年末進行に入ってしまった。ひたすら論文を書くしかない。英文のアブストラクトもつけなくてはならないので、大変なプレッシャーである。しかし、この数か月がんばって地道にやってきたことを愚直に書き綴るしかないと思う。そして大晦日のフェローシップへと突入…。
_ 専門学校が廃校になって職を失って以来、学問を再び志して学生生活を謳歌したのだが、昨年の年の暮れからふたたび仕事をいただくことができ、まるまる一年間働くことができた。しかも母校の東大に所属することができたのだから、わたしはとても運がいいと思っている。仕事の内容はいろいろと欲を言い出せばきりがないのだけれど、いろいろ自分でマネージしたり戦略を立てたりするのはあまり得意ではないし、むしろ与えられた職務を誠実にこなすことのほうが向いている気がしている。これは20代、30代に自己イメージしていたのとはまったく異なっていて、意外にもわたしは小市民であり一兵卒であり、自分の分相応の範囲で収まっているほうが居心地がいいサラリーマンだということがよくわかってきた。しかしながら、たいして創造性のないように見えるルーティンワークも、10年20年と続けていけば、不規則な事案に遭遇しても滑らかに対応できるようになってくるから不思議だ。経験というものは概念や枠組みを凌駕してくれる。その道を何十年も歩いている人に高々1,2年の新規参入が戦いを挑んだって勝てるものではない。そういうことを最近よく考えるのである。
人生はそんなに長いものではないと思う。すべては過ぎ去るし、同じ形でいつづけるものもない。私たちはユークリッド幾何学とかニュートン力学に毒されているので、唯物論的考え方に偏向しがちである。一つの光子が二つの格子を同時にすり抜けて向こう岸で干渉縞を作るなんてことを高校生の頃初めて聞いたとき、腰が抜けるほどびっくりしたものである。でも人生はその干渉縞そのものだ。縞の濃淡で一喜一憂しているのではないか。因果関係とか論理学が好きならば、それはそれでいいのだけれど、父が亡くなり母が亡くなり、自分だって本当に平均余命まで生きるのだろうか、積立気分で乗せてきた年金を一円ももらえないうちに脳溢血で倒れないという保証があるのだろうか。お金を稼ぐのが究極の目標にならないところはそこにある。仕事ができたこの一年に対して感謝しているのは、物心両方のことであって、身分や立場がもらえて尊重されているという感じがするからにほかならない。
40,50代で無職というのを味わったからこそこの次を大切に生きていきたいという気持ちが強いのかもしれない。幸いにもわたしには仕事以外にライフワークを見つけているし、大変な人数の構成員のメンバーたちと出会うことができた。今も日々新しい出会いに満ちている。苦しんでいる人が目前に現れたら、助けになりたい。また間接的な効果であっても、構成を改善することに全力を尽くしたい。みんなが尻込みするような大舞台にも仲間の後押しでひょいと出られるようになったし、この小市民のわたしには奇跡としか言いようがない。思うようにならないときには宗教宗派が仏の声を届けてくれるし、愚痴をこぼすと聞いてくれる人が一人や二人と言わずいる。考えの違う人たちとも無難にやり過ごせるし、うまく生きられるようになったものだ。
いろいろ小理屈を書いてしまったが、結局私はたくさんの人間関係に恵まれ、驚くべきタイミングで価値あるものを与えられ、サジェッションを受けているということである。耳さえ塞がずにいれば、短いこの人生で次々に与えられていくことだろう。
● つくし野 尾崎 [森田さん、明けましておめでとうございます。 なにか、森田さんの言わんとしているところ、すごく共感できます。 私は..]