ちょっと大げさなタイトルかもしれない。しかし最近湧き上がる気持ちを書いてみたい。
人生にはいつも最適な答えが用意されている。それが自分にとって、以前から予測していたイメージどおりとは限らない。注意深く避けてきたものが突然現れたり、別の目的で続けてきたことが他の用途に役立ったりする。一年前、二年前にそのようなことを予測し得たであろうか。現実が立ち現れるたびに、神の意思はいったいどこにあるのかと疑いたくなることもある。状況が進むに連れ、ひょっとしたらこれでよかったのかもしれないと考えが変わることもある。
どのようなケースにしても言えるのは、他の人とのかかわりの中で解答が示されることが多いということだ。まったく違った角度からの、いっけん厳しいようでしかし客観的な愛と共感の中での意見は、大きく自分を動かすということである。そして思考は現実化する。常々考えている通りになっていくのも事実である。だから神の意思を知ることはとても大切なことだと思う。利己的で不正直な意思を持ち続けているとそのような人間になるからである。
他の人にできないが自分にはできること、他の人にはできても自分にはできないこと。これらを見極められれば、この世の中に自分が貢献できる役どころが見つかるかもしれない。特権や義務は大切にしなくてはならない。毎日やるべきことがあるからだ。それがすぐに役立たなくても、あるいは手が届きそうにないとしても、導きの手は必ず現れる。
ぼくはいろんな最近の出来事を通して、信仰を持てるようになったのかもしれない。見通しがつくようになったのはそのおかげと言える。
きょうは一日自分を捨てて、平和の道具にならせてもらう。集会運営。批判も受けたが原理は貫徹。あとは民主的に決めていく。修羅場になるとみなさん人間性が出るなあ。自分もそうだけど(笑)。
曲げてはいけない大事なこともあると気づかれる一日だった。
年末でしかも最後の土日。今年ラストの労組会議。いろいろあったがこれで年も越せるだろう。
理解者、支え、奉仕、好意。組合活動の中で気づかれた恩恵の数々。人と人とのつながりということを感じる。人の助けの中で生きて来られたのだと思う。若い頃は気づかなかったんだよなあ。
会議終了後、自分を除く全員は忘年会へ。自己選択なのだが、この瞬間がちょっとだけ寂しい。しかしぼくには行くべき場所が別にあるのである。
イブの夜、みなさんはどう過ごされただろうか。
応援部吹奏楽団の定期演奏会を聞きに行く。今年の秋はぼくは空いてる土日はすべて神宮の応援に行った。演奏とチアの華々しいパフォーマンス。淡青祭と違ってリーダーが裏方に回っていたが、品格のあるすばらしいステージであった。
入場無料だったが、カンパを募り開催費用に回しているようだった。終了後受付に集められている茶封筒の山を見ると圧巻。一人千円くらい取るよりも、実はこのやりかたの方がたくさん集まるのかもしれない。
帰りはバイクで板橋まで。極寒の季節になった。信号待ちのたびに震え上がって後悔。たぶん気温3度くらい。当面今日からバイクはやめよう。
たいてい年明けに一年間の決算をするのだが、今年は年内に早々と済ませた。確定申告にかかわるからである。不動産所得から経費を引いて複式簿記で整理整頓という手順。Amazonでの書籍販売は2009年の秋で廃業扱いしたため、そちらの経費は計上できない。そのような事情もあり、給与以外の部分はついに今年は黒字である。普通の感覚だと黒字はよいことなのだろうが、確定申告をする立場から言うと「黒字=税を納める」という意味である。毎年赤字で還付を受けてきたが、今年度はそれはできないようである。しかしながら最近ではバイクの買い換えなど支出も多かった。いちどきに現金で数万円出ていくとちょっと痛い。でも精神的にも整理整頓は必要であるし、健全な経費計上は生きていくための条件であるといえる。
確定申告には義務免除事項もあり、給与以外の所得が20万円未満の場合は確定申告をしなくてもよい。さびしいことに自分はこれに当てはまるので、今回は書類作成はしたが税務署に提出せず、つまり申告納税はなしというオチなのであった。遵法行為なので公表しても問題なしである。
放送大学の面接授業(スクーリング)で、久しぶりに東京世田谷学習センターに足を運んでいる。科目は「英語の基本」と「暮らしを支える材料」。英語のレベルはぼくはなかなか上がらないのだが、とにかく口に出して言うということが大事かもしれない。「材料」のほうはプラスティックについての勉強である。化学工学と言ってよいだろうか。知らないことを初めて知るのは楽しい。
世田谷学習センターは歩くと廊下がみしみしいうのだが、まるで長崎のグラバー邸の中にでもいるようである。木造のいわゆる昔の小学校の校舎のようだ。講師の方が由来として「青山師範」と言及されていたが、調べてみると第一師範学校(東京府青山師範)の付属小学校として使われていた校舎らしい。ちょっと隙間風が流れてくるのが冬はつらいが、落ち着いて勉強できる雰囲気というのはこういうのをいうのだろう。
駅から遠いし食事ができるお店も周囲にあまりない。でも学校のそばというのはそういうものだ。市の条例などで文教地区にはあまり遊び場を建設できないように規制されているところも多い。最近の大学町はそうでもないが、学校というのは本来はこうなのかもしれない。しかしバイクで環七から行けばアクセスはよいし、今回の講義は昼までで終わるものばかりなので、街に戻って昼食を取れば不便はない。
思い起こしてみると1993年に放送大学全科履修生として入学したときには、東京都内にはこの世田谷学習センターしかなかったように思う。だから登録センターをここにしていたし、試験もここで受けた記憶がある。多摩や文京など都内に次の学習センターができたときは、世田谷を東京第一学習センターと言っていたようだった。
休学期間もあったが足掛け17年の通信学生生活、昨年ようやく単位が満ちて卒業したが、今年からコースを変えて再入学したので、またも学生生活は続くのである。学籍番号の先頭は当初入学の年度が表示されるので、ぼくの学籍番号は93……で始まる。面接授業で番号順に出席を取られるときに、二番目か三番目に呼ばれることが多い。しかし一番や二番がいるということは、その人たちは1985〜92年の入学なのだろう。本当にこれが生涯学習たるゆえんだと思う。
悲願だったドイツ語検定三級、合格通知が今日届いた。うれしい。合格最低点が8点ばかり下がったようだ。つまり難易度が上がっていたということである。自己採点結果が芳しくなかったのもうなづける。しかし文章総合問題がほとんど満点に近かったので、それが功を奏したといえよう。前回の不合格以来、放送大学でドイツ語関連科目すべてを履修し、NHK教育テレビのドイツ語講座、そして今も早朝6:45のラジオ講座、聴き続けてきた甲斐があったというものだ。直前一ヶ月間の対策の勉強もよかったのかもしれない。あとじっくり勉強できる環境を与えてくれた東京大学本郷キャンパスの総合図書館にも感謝したい。
次はやっぱり英語だろう。世界のサービスを目指したい。自分の野望だけだと転んでしまいそうだが、それが奉仕につながるなら神様は赦してくれるかも。
いろいろあり過ぎてちょっと疲れております。神様はいろいろとわたしに配剤をして下さっているんだろうけれど。だいたい問題と問題は重なってやってくるんだよね。だからこそ一つずつが薄まるという効果もあるんだけど。
こんなときにはなぜかどのスポンシーからも相談がない。察知してるんだろうか…。相談に乗っていると一気に元気が吹き返すんだけどね。あー、ツーステップしたい今日この頃。
髪を切ったついでに最近よくやるのが、白髪染めである。2種類のジェルを混合して髪に塗り、数分経ったらシャンプーで流して完成というお手軽な方法。鏡を見るとびっくりするくらい印象が変わるのだ。若返るなぁ。あるところで初老の男性から「学生さんですか?」と聞かれる。いやいくらなんでもそんなに若くはないですよ。でも二十代に見られたのかな、なんて、微妙に複雑な気分。
東大浅野地区での一般公開シンポジウムに参加。自分の専門だった原子力分野である。武田先端知ビルという新しい建物が建っている。国家予算が使われているのだと実感。
内容は福井県の原子力施設誘致に関する話と、網走などへの廃棄物最終処分場のこれも誘致の話題。現場の声がよくわかる。これまでいろいろ参加した他学部のシンポジウムと違って、一度は自分が歩こうとしていた分野なので、マターがわかる。講演とパネルディスカッションで締めくくり。日中約四時間の討論であった。
休憩時間に受付のところで主催事務局の職員を見かけたら、学生の頃に世話になった事務のかたがおられた。「卒業生の森田です」と声をかけたら、憶えておられたようでちょっとうれしい。卒業から20年以上経っているのに、あまりお歳も感じられない。何かの折にまた世話になるかもしれない。一礼して会場を後に。
浅野忠信がアルコール依存症の元カメラマンの役を演ずる。原作は漫画家の西原理恵子氏の夫の手記のようだ。酒に溺れ、体を壊し、アルコール病棟に入院し、断酒を始める…といったストーリー。普通は愛想をつかされるところが、この話では離婚した妻と子供たちが本人を慕うという設定である。主観が入ってるのかなあ。現実は、こう美しくはまとまらないぞ。やめて10年くらい経つと別かもしれないが。
アルコール病棟の中の、アル中どうしのすったもんだの騒動の描写が秀逸である。ぼくは入院経験はないが、仲間と仲間の心の動きが手に取るようにわかる。
エンディングテーマは故・忌野清志郎の「誇り高く生きよう」が使われている。清志郎が喉頭がんで治療を開始し、声質が変わってしまっていた頃のアルバム「夢助」の中の一曲である。人生と家族、命について考えさせられる映画だった。