3/22が祖母の命日のため、この春のお彼岸のあたりは京都の納骨堂への墓参りの絶好のチャンスである。一度父と同行したが、それきりであった。今年あたり行ってみたい気もしていたが、いろいろあって保留した。結局東京でお彼岸を迎えることになってしまったが、京都の大谷本廟には行けなかったものの、築地本願寺のイベント参加とした。
築地本願寺には定期的にお参りに行っているが、今回は雅楽演奏などもあり、すこし神道風な雰囲気でもあった。参拝者も多くにぎわっていた。小一時間過ごしお寺をあとにする。休日の銀座を通ったがこちらもすごい人出だった。
信仰につながるものをいつも大切にしていたい。
高飛びは冗談にしても、ふだんなら三月はいつも仕事は休みだし、たっぷり余裕のある時期なのだが、今年はどうも勝手が違う。なんだかいろんなことに巻き込まれている感じがする。巻き込まれているときの効果的な対処法は「いちいち反応するべきではない」である。新しい案件がまた発生しているが、対処をしなくてはならないものなのか、そうではないのか、判断が難しい。そういう時はやはり経験者への相談であろう。
暖かくなってきたのがちょっと救いである。このままお彼岸、そして花見や年度替り、そして新学期と続くだろう。やることがたくさんあるのは幸せなことだ。
三月に入ってからやることが多く嵐のようだった。実際嵐も起きているし、まだしばらく続くだろう。でも自分にできるぎりぎりのことがいつも与えられているという気がする。一人ではないことに感謝。
つまるところ、人生でこれがいちばん大切なのかもしれない。今年の冬は風邪が三度もぶり返している。インフルエンザなら世間から遮断して、病気の息の根を止めて、治療に専念……というシナリオに乗れるのだが、それもできず、だらだらと仕事とかミーティングとか続けている始末。しかしこんな半病人みたいなときでも、きちんと服を着て病院に行くと熱は下がるしのどの腫れも引く。医者からは「そんなにひどくないですね」と言われ「昨夜や今朝は熱もあったし喉も痛かったんですが」と答える繰り返し。自宅にこもっているとむしろ悪化するのである。
寒風吹きすさぶ中歩き回る必要はないが、必要な仕事をしに出かけ、行くべきところへ行き、仲間の手助けをして帰ってくれば、これが健康への近道であろう。
2008年度と2007年度の還付申告をし、めでたく還付額が振り込まれた。申請は全額通ったようである。2008年度の戻りが18,500円、2007年度の戻りが11,100円である。面倒がらずにもっと前からやっておけば、あと数万円は戻ってきただろう。気づいたときこそ還付のスタートだ。
不動産所得は初年度はとても大きな経費、つまり不動産取得税や仲介手数料を差し引けば赤字になる。黒字になっても青色申告控除額がある。複式簿記での損益計算書を出せば65万円の控除だ。
ほんとうに幸せだと思えるようなものに時間をつぎ込んでいるのだろうか。棚卸しの必要がある。幸せを感じられる時間をイメージし、実際に自分が今月や今週使った時間を「紙に書いて」点検してみる。紙に書く棚卸しというのはすごい威力を発揮する。ふだんイメージしているものとぜんぜん違った結果が現れるからだ。
コンピュータ生活、中でもインターネット定額接続になって以来、ぼくはどれだけたくさんの時間をネット接続に費やしてきたことだろうか。思えば2000年頃の「フレッツISDN」(64kbps)以来のことだと思うが、今も一日のスタートと一日の終わりに数時間を費やしている。こうしてこれを書いている今もである。
読みたい本は横に積みあがっているし、仲間と会う時間も割けばもっと作れるのかもしれない。10年のソーバーを過ぎているのに12ステップコールサービスに登録していないなんて犯罪的かもしれない。やはり改善が必要なのだ。
時間は作れば生まれるが、注意を払っていないとどんどん湯水のように流れていく。明日事故で死ぬ可能性だってあるんだよ! 納得のいくことに時間を使っていきたい。
二・三月は放送大学の集中放送期間である。毎朝同じ時間に同じ科目の放送があり、通常は週一で15週かけてワンクール回る授業が二週間ですべて終わる。来期受講する「ドイツ語入門II」を聞きながら朝の時間を過ごす。過去形や完了形にさらに話法の助動詞が加わり、ドイツ語特有の枠構造。こんがらがる上に早口でまくし立てられて、降参する勢いである。
昼前に久しぶりに全体サービスオフィスへ。静かでよい雰囲気である。いろんな最近の話をする。分かり合える仲間はとても貴重だ。
午後職場に向かい、労務窓口折衝。問題山積だが、すべて解決していく予感。世の中ではきちんと努力をしていれば、報われるものなのだ。きちんと努力し、きちんと主張する。それでよい。しかし自分の取り分のことばかり考えていると、もらえてないことのほうに意識がいく。いまこそ東洋思想が大切なのかもしれない。
夜はこれもまた久しぶりの三鷹方面へ。一年ぶりくらいに行った会場だが、知ってる顔ぶれもたくさんいて、よい分かち合い。
夜の冷え込みがまた戻ってきた。この冬二度目の風邪もようやく治ってきたというのに。
たっぷり時間のあるこの時期がやってきたことに感謝しよう。
2/9に地区のミーティング場の地図印刷、そしてそれが終わって板橋の仲間のバースデー。2/10は多摩の中間施設へ司会ボランティア、夕方仲間にステップの分かち合い、そして中野でスピーカーを聞くというスケジュール。そしてきょうは久しぶりに一日休みである。依頼されていた原稿を書いて、仲間にチェックしてもらう。夜はグループのミーティングだけだ。
明日から二日間、千葉の本部で泊まりの放送大学スクーリングである。スクーリングの日程は何ヶ月も前にスケジューリングされてしまうので、そのころどんな状況とか忙しさなのか、想像できずに日程を入れてしまう。二月の半ばなら学校の仕事も終わり、死ぬほどヒマだろうと踏んでいたのだが、やはり予想は予想でしかなかった。
ゆっくり眠れるのはいつの日か……。
この五日間くらい、朝から晩までスケジュールが詰まっている。仕事も学科ごとに最終授業が続き、ふだんなら時間できっちり終わるところも終われないケースが頻発している。不思議と仲間の中でのいろんなことも、多忙となってくる。こういう忙しさには相乗効果があるのかもしれない。
「急ぐ仕事は忙しい人に頼め」みたいな知恵があるらしい。よく仕事の生産性向上や自己啓発本に出てくる。スピードサイクルに乗っかっていると、一個の仕事が入ってくると、スタートすればあっという間である。なんせ次の仕事がいくつも待っているのだからのんびりなどしていられない。だからいいのだろう。そしてそういう時はエンドルフィンとかA10神経とか、専門的なことはよくわからないが、とにかく脳も活性化しているので、なおさらよい仕事ができるのかもしれない。
もう少しすれば乗り切れて一気に暇になるはずなのだ。それまでなすべきことをその日にできる範囲でやっていこう。
人間が成長していくとき、内側から変化していかなくては本物にならないとよく言う。そのとおりだと思う。物質的なものや金銭的なこと、あるいは特定の物事については、全体的な成長のあとについてくることだからだ。外側にあることは目に付きやすい。年収とか仕事とか家族構成とかである。そして他人の達成についてはなおさら目が行く。その人がどのような努力をし、どのように自分を磨いたり、厳しい境遇や条件を受け入れてきたかはともかくとして、である。
先日もここに書いたが、人間は自分が考えているような人間になる。そして祈りも通じる。品格のないことばかり考えていると品格のない人となるし、逆も真なりである。
職場では労働条件のことや職場での労使の関係ばかり考えてきたこの数年であった。金よりも休みや力関係だと考えていたら本当にそうなった。仲間との回復の場では、新しい仲間や新しいグループが欲しいと考えていたらそうなった。できる限りの全体サービスをやってみようと思っていたら大体できた。
もちろん、「自分のイメージしていたような形」ではない。形はあとからなんとなく与えてもらえる。そして結果を見た時点でそれがぼくの「外側」となっている。現時点での43歳の森田である。
最近は環境もとても大切だという気がしている。毎日組合の人と付き合っていると、自然と考え方も組合的になる。左翼の人たちは独特の脳みその使い方をする。ふだんその他の人たちの使わないような部分の脳を使っているのだ。また自助団体のメンバーも独特の脳の使い方をする。というか彼らは自分と同じく狂っているので(自己中心的で配慮が足りない、だけか…)、特徴的な言動があるのだ。でも中でも回復を果たして、今もなお努力している仲間には魅力がある。そういう人たちのそばにいると、根拠もなく自分もそうなれるような気がしてくるから不思議だ。考えが「移る」のである。理科系の研究室にいたときも、毎日理科系の言葉や訓練ばかりで、考え方や行動がそういう風に変化していっているのを感じた。
環境に飛び込み、考えを変化させ、日々祈り、実践する。そうすると内側が変わり、そして外側も変わっていくのである。ときどき客観的に他の人から助言してもらい、痛いところを突かれたときほどそれを取り入れよう(難しいが…)。それで人生は進んでいくはずだ。