仲間たちがプログラムにしている小手指へ行くには、職場からとなると西武新宿線を使って高田馬場から所沢まで行く。そして池袋線に乗り換えて二駅だ。以前の住まいは西武新宿線沿線だったが、急行にはあまり乗らなかった。大変混んでいるのである。さらに夕方のラッシュ時間だ。でもまあ埼京線や田園都市線に比べたらいい方かもしれない。しかしラッシュに弱いぼくとしては、ほんの少しの区間でも骨が折れる。
高田馬場から鷺ノ宮までがおそらく最も混んでいる区間だろう。周りの人たちの靴と靴の間に立っている感じがする。体が斜めになっていると、その靴によって倒れていくのである。他人の体によって支えられている。その人たちが流れて離れていくとまさに倒れてしまう。汗に覆われながら10分近く耐える。
鷺ノ宮、上石神井で、少し人が降りるので、つり革につかまることができる。すこしほっとするがあまり身動きができない。田無でようやく空間があいてくる。人間らしく立っていられる。花小金井、小平、久米川、と普通の電車にもどる。東村山のマンションが空室になっていたとしたら、このあたりをいつも通わなくてはならなかった。板橋があいたことに感謝する。
小手指に着いたらすごい雨である。ここのところ梅雨というより夕立のようだ。しばらくこんな感じであろう。
ゲストとして呼ばれて仲間三人と船堀へ。過去の話を中心に、一人20分程度体験談を話す。ここへよく行っていたのは地域の役割をしていたときだから、もう八年くらい経っているだろうか。それでも知っている仲間が四人いた。残念ながら古い仲間はもうほとんど出てきていないが、建物も会館の前の喫煙所も、昔のとおりである。
いくらか等身大で話ができるようになってきた気がするが、まだまだ気負いがある。司会だったからかなぁ。最近の自分のテーマは「気負いなく、正直に」である。仲間への配慮と両立するのが難しい。何も考えずただただ正直さだけを目指してぶちまけていたころのことを考えると、まるでぼくは子供のようだった。周りをたくさん傷つけてたんだよね。
できることを与えてもらったことに感謝しよう。留守番してグループを守ってくれた仲間にも感謝である。
西早稲田の焼肉店で友人と再会。小一時間過去の話や今の話をお互いにする。顔や形はほとんど変わっていない気がする。学生の頃というと1985〜1990だから、もう20年近い年月が流れている。どう考えても自分も相手も老けているはずなのだが、まったくそれを感じない。不思議なものだ。
ぼく自身の話はともかくとして、相手の話に集中してみる。チェロ、iPod、大学院、職場の人間関係、頑固な人々、家族。お互いに世界は広がっているのだ。成功して大立者になったわけではないが、地の底まで沈んだわけでもない。そこそこに生きて、そこそこに楽しんでいるのである。
遠慮なくいろんな話題に飛び移れるのがいい。偏見がない関係というのはよいと思う。肩書きとか出身はどうでもよいのだ。そういう話題も出た。一個の人間だから、それなりに生きているというそれだけである。
こういった関係をいままでおざなりにしてきたかもしれない。ちょっと反省。同窓会とか大切かも。それなりに歳を取ってきたということだろうか。
先日来、職場教室内からメール送信できないという報告が相次ぎ、自分の授業でも、実際にメールを送信させてみたところ全員ができないでいた。同僚と話し合っている中で、契約プロバイダが表題の25番ポートブロックを実施していることに気づき、これが原因とわかった。
詳しい内容は多くのプロバイダの広報ページに記述されているので省くが、このOP25Bはインターネットポートのうち、メール送信に標準的に使われている25番のポートを587番や10025番に変更することにより、機械的にポートスキャンして脆弱な送信サーバーを探して不正な大量迷惑メールの踏み台にする輩を撃退する効果があるのだ。外部プロバイダから不正利用されるのを防ぐのが主目的ではあるが、内部から外部の送信サーバーを利用されるときにもブロックされてしまう。職場では教室での契約プロバイダとサーバー設置のプロバイダが違うため、影響を受けてしまったようである。問題は十分な周知なく仕様を変更された点である。
原因がわかってから対策に乗り出したが、25番以外のポートでサービスを提供するにはサーバーアプリケーションの設定変更が必要である。職場設置のサーバーはFreeBSDで作ったCUI(Character User Interface)のサーバーであるため、ポート欄の数字をカチャカチャとキーボードで書き換えて「OK」と押して変更できるほど生易しくはない。かつてのMS-DOSのころのように、コマンドで設定ファイルを調べ、スクリーンエディタで該当箇所をサーチし、置き換えたらバイナリをMakeし、kill -HUPしなくてはならないのだ。
ようやくポートの書き換え箇所がわかるが25を587に変更したものの、ポートの開放方法がわからない。設定ファイルが二重、三重の構造になっているのだ。送信メールサーバーのアプリケーションであるSendmailの設定ファイル/etc/sendmail.cfは書き換えが難解なことが有名なファイルであり、それを書き換えるためのツールが何種類も存在する。有名なのはm4やCFだが、ネットで情報を探してみるとポート書き換えの方法は主にm4ベースで紹介されている。うちで使っているのはCFなのに。英語の文献などあちこちやって試してみるがなかなかうまくいかず。職場にいない時間も含め三日間くらい時間を費やした。
そしてなんとかポート開放もでき、スキャンツールで確認しても587が開くに至った。しかし肝心のメールが送達されないでキューにたまっていくのである。ほとほと疲れてしまった。もういいか。教室からメールを送るのはあきらめてもらって、送信は事務局や自宅からやってもらうか…と、書き換えたファイルを元に戻していった。そして最後にルーターのポート設定を元に戻そうとしたとき、ひらめいたのである。NATである。NATはローカルIPとグローバルIPを変換して、外と内でのアドレスをだましあうシステムなのだが、IPだけではなくポートもだませるのだ。内では25番ポートで動いているメールサーバーを、ルーターの外では587にだませばよいのだ! 実際そうしてみたらすべてうまくいった。そしてさらに、今までどおりの25番ポートを使っているソフトウェアからも、それはそれでNATを通してやれば、それもエラーは出ない。
全部解決した。三日間の苦労は何だったのだろう。でもこの問題解決のおかけで、sendmail.cfや/etc/servicesやm4,CFなどネットワーク関連のスキルがまたひとつ上がったと思う。これまでもいろいろなネットワーク問題が持ち上がるたびに、形はどうあれ解決してきたのは事実だ。これらの経験から「解決しない試練は来ない」と断言できるのがうれしい。
まだまだ下がる電気代。そろそろ大底か。検針のお知らせを見ると、今月は29kWhで824円。15A基本料409円、1段料金518円、燃料費調整△50円、口座振替割引△52円という内訳である。一ヶ月824円というと単純計算しても一日あたり27円である。郵便局なんかの超低金利定期預金の利息程度だろうか。まあこれ以上下がることはさすがにないだろう。
ほとんど土日を仲間と過ごす週。今日も昨日に続いて(別の仲間だが)基本テキストの内容を手渡す。どんどん手渡しているが、渡せは渡すほど自分の中に入っていく感じがする。これは独占してはいけない、と直感的に思う。受け取った仲間が他の仲間に手渡すよう、強く要請しよう。サービス活動とまったく同じ構造かも。
第一土曜の昼間に予定が入っていないときは、清瀬の施設へ話をしに行く。遠くて時間がかかるが、それがいいのだ。しかし最近自分がしている話が支離滅裂に感じることがよくある。何かが欠けているのかもしれない。
それにくらべると仲間の話は気負いがなく、正直に話しているように思う。ということは、自分は気負いがあって不正直なのかもしれない。ああ簡単だ。他の人は鑑(かがみ)と言う。
何回ここへ行ったかわからないが、時とともに周りが変わっていくのを感じる。もちろん、ぼくが初めてここへメッセージに行ったときから、今も来続けている仲間もいる。なんと二十年連続だそうだ。ぼくもそんなふうになれたらいいなと思う。
先月と同じく、メッセージのあと仲間と基本テキストの分かち合いをしてから川越へ。清瀬よりさらに遠い。ここも古い会場だ。13年目くらいのときに、ひとりで行って知っている人が一人もいなくて「ミーティングは初めてですか?」と聞かれたことがある。謙虚さも殿堂入りしたということの証かもしれない。ちょっと違うか…。
今は不思議なことに、ここの会場では知っている人だらけだ。歩いている場所は大して変わらないのだけれど。
すこし間があいたが、再度カラオケへ。先日までの激しいカラオケ渇望状態は沈静化したようだ。でも二時間ほど歌いまくる。joyは曲数が少ないと知る。次は別のシステムのある店に行こう。キヨシローだけでなく、後半はちょっと古めの歌謡曲も歌う。光GENJIがどうも思うように歌えない。ショック。サビのあとのブリッジがどうもわからなくなるのだ。それにくらべて田原俊彦とかシブガキ隊はうまく歌える。自分で歌う分にはジャニーズけっこういいかも。
授業を受ける話はここによく書くのだが、自分が授業をやる側の話はなかなか書きづらい。ブログに書くということは、業務に影響を与えることもあるからだ。やるからにはベストな授業を行いたいし、あれもできなかった、これもできなかったと悔いる結果にしたくはない。有限な時間と労力で、みなさんに最大の利益を与えられれば、と思っている。
実はカリキュラムの都合があって、今期の授業はこの6/1をもって終了なのだ。来週から七月末までは他の先生にバトンタッチである。補講をやったりするかもしれないし、後期の授業は未定なのだが、ともかく前半は終わったということである。
毎年学科によってインターネットカリキュラムが入る。ネットワークの基礎、つまりTCP/IPやプロトコルの説明から始まって、メールの仕組み、FTPなどをやっていき、htmlの技法に時間をかける。だいたいそのあたりで10週〜15週となるのだが、今回はそれを三時間でまとめなくてはならなかった。ダイジェストをやると細かい仕組みを知ることができない分、本当に大切なのはこことここということが、やっている側も受ける側も、ともに知るところとなったのではないかと思う。
最近放送大学で授業を受けることが多いので、自分が教師の側になったときにどういった点に注意すれば質の高い授業ができるか、気付きがたくさんあると思う。
5/30,31の土日に放送大学の面接授業(スクーリング)が、茨城大学内の放送大学茨城学習センターで行われた。今回選択したのは「親鸞と歎異抄」である。浄土真宗大谷派(東本願寺)から出版されているテキストが用いられた。
歴史的な問題ももちろん触れられたが、今回の内容は主に歎異抄の思想についてである。受講生の年齢層は大変高かった。30名近くいた学生のうち、ぼくはたぶん最年少か、あるいは2,3番目の若さだったかもしれない。先生が「お若い方もいらっしゃるので…」というたびにぼくの顔を見ていた。
絶対的信頼というテーマに差し掛かったとき、歎異抄の中の有名な文言「たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」というのが示された。法然上人は親鸞の師匠で浄土宗の開祖である。すかされるとは、騙されるの意。師匠に騙されて地獄に落ちても後悔しないと思う、と言っているのである。法然上人のいる草庵「六角堂」に、親鸞が100日続けて通い続けたという話とか、親鸞の弟子唯円が、こころから浄土に行きたいと思えないという疑問を親鸞にぶつけた話など、人間同士の機微の問題がたくさん出てきた。自分の考えを使おうとすることを戒めたり、教団の分裂にどう対処してきたかについても触れられた。
今回は知識を集める感じの授業ではなかったのがよかったと思う。最後にレポートを提出したが、実家が檀家から外れて納骨を京都に移したことや、東と西についての自分の混乱の体験も書いた。自分の宗派について、再考すべきときかもしれない。帰りに歎異抄の著者とされる唯円の寺「報仏寺」に寄ろうとしたが、折からの大雨と赤塚駅からのバスがお寺に向かわなかったことを受けて、今回は断念した。前後の予定はもう少し計画的にやればよかったなと思う。
仏教はやはり葬式や法事のためだけにあるのではない。むしろ、生きるための智慧なのだと思う。「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし」という恩徳讃にはすこし鳥肌も立った。ぼくはこれまで身を粉にするほどの感謝のこころを持っただろうか。人生には点検が必要である。
金曜の夜に水戸入りし二泊して計8コマの講義であったため、土曜の夜も少し時間があった。そこで東海村に向かってみた。学生のときに実習で宿泊した記憶が甦ってきたからである。
水戸から常磐線を日立方向に三駅ほどで「東海」駅に着く。ずいぶんと変わった感じがした。昔は二面三線の小さな駅で、跨線橋を渡って東口に出たような気がした。いまは立派な橋上駅である。九州の日豊本線の各駅もここ20年ほどで似たような変化があったのだが、関東のこちらも状況は同じようである。
授業が終わって夕方水戸を出たため、東海についたのはすでに日が暮れたあとであった。休日でもあるし、夜になって東海の原子力施設に向かう人は皆無である。寂しいバス停があるが、バスの本数もほぼなくなっており、タクシーで行くほどの強い動機があるわけでもない。
東海村には日本原子力研究所、動力炉核燃料開発事業団、そして昔お世話になった東京大学工学部付属原子力研究施設などが並んでいる。日本で最初に原子力の灯がともったのはたしかこの東海村の実験炉だと思う。この東海村にはそのような各種原子力施設がたくさん並んでいるのだ。JCOの被爆事故が起こったことでも有名になったが、電力会社の子会社や孫請けの施設も含めると膨大な数になるのではないかと思う。
駅から各施設まではかなりの距離があるので、行くのはあきらめて駅前のジャスコで食事をして帰ることにした。やはり地方都市で暮らすには自動車が必須かもしれない。平日の昼間ならば少しは動きようがあったのだが、これも思いつきで動こうとしたための不備である。
ちょっとした運命のサイコロの変化で、ぼくはこういった原子力関連の仕事をしながら、ずっと暮らしていたかもしれないのであった。自分で選んできた要素もあるが、いろんな状況が与えてくれた部分も大きい。これからだってわからないわけだが、自分の選びうる選択は幅があるのだと思う。