この火曜日、そして今日、一日置いて、連続で行ってしまった。
かなりの分量の中華料理だが、一律500円。チャーハンととんこつ角煮ラーメン、とか、マーボー丼とラーメン、とか。webで調べたら結構有名らしい。安すぎてつぶれるんじゃないかと心配したくなるくらいである。
店員さん全員ネイティブ中国人みたい。怒号のような中国語が飛び交っている。
安くてうまい王将よりさらにいい店かも。
「中野区立図書館をご利用いただきありがとうございます。
ご要望の件につきまして回答いたします。
図書館内におきます異臭につきまして、一概にそのことを理由として退館をお願いすることは難しいと考えておりますが、お客さまに著しく被害が及ぶ場合は退館をお願いすることもございます。いずれにいたしましても、個人差や人権に配慮することなど慎重な対応が必要と考えておりますので、ご理解・ご協力をお願いいたします。
これからも中野区立図書館のご利用お待ちしております」
ぼくは比較的図書館おたくかも知れず、地域内のかなりの図書館について情報を持っている。ところで中野の中央図書館。ゼロホールのすぐ隣にあり、比較的知られている場所なのだが、ここは浮浪者の侵入に甘くて有名。冬のこの季節になると、異臭を放つ人が必ずいるのである。よくまあ受験生や勉強をしている人がいると思うのだが、かなり離れていても匂ってくる。
別に司書の人に追い払えと言っているわけではない。そんなことは司書の仕事ではないからだ。福利を大切にするとすれば、運営者である中野区がガードマンを雇って追い払うようにさせるべきなのである。
浮浪者かどうかの判定が難しい……なんて言い訳はさせない。「明らかに臭い」人を追い出すだけで十分でなのである。今日も明らかに臭い人が三人いて、その近くの席は人もまばらになっていた。これを放置しているのは中野区の責任である。異臭を強制的にかがされるのは、暴力を振るわれるのに等しい。暴力を振るう人は法により排除されるではないか。声を大にして言いたい。そして中野区に投稿もしようと思う。
市谷で開かれた通信教育説明会に参加してみた。予想に反してすごい人数、こんなに教育を受けたがっている人が溢れているのかと思った。私大の五校が参加していたのだが、どのブースも個別相談は長蛇の列。そして全体説明はいちおう30分行なわれたのだが、あまり慣れていないと思われる担当者がぼそぼそ何しゃべっているのかわからない。当然のことながら、会場から「もっと大きな声でお願いします!」と叫ぶ人も出る始末。不況の専門学校業界とはえらい違いだ。
自分のグループの属する地区の委員会。そして大塚でミーティング。今年は第三土曜はたぶんずっとこの流れになるだろう。委員会人多すぎである。自分が議長だった頃は六人くらいだったのだが。この地区もそろそろ分割か。総評や国労は分割されて解体したが、ここは労組ではないので、分割すればそれなりに健全に活動が進むように思うのだが。
大塚や赤羽・成増は、土曜によく通った会場である。またこちらに生活の場が移っていく予感がする。
中野のマルカワというジーンズショップでハンパ物の処分市をやっているところに出くわした。ボタンが一つ取れているという理由で、ズボンが420円。ちょっと日焼けしているという理由で、トレーナー上下で210円。ほかは何も悪くない。両方買ってしまった。「裾直ししますか?」と、店員のお姉さんに明るく聞かれてしまうが、630円しか払っていないのに裾直しまでやらせるほどぼくの面の皮は厚くないのだ。試着だけさせてもらうだけで十分だった。
取れたボタンはポケットにちゃんと入れてあったので、帰って黒糸で縫いつける。トレーナーの日焼けは、うーん、別に外にトレーナー着て出歩くわけじゃないし、それに洗濯したらそのうち取れるかもしれない。救世軍のバザーより安かったかもしれない。
中野はほかにも、ブロードウェイ二階の「野崎コイン」で、東京メトロ回数券(160円券片×11枚綴り)を常時1500円で売っている。いったいぜんたいみんな儲けというものをあまり意識していないんだろうか?と不思議な気分になるくらいお得な町である。
いよいよグループ発足の日となった。ミーティングの参加メンバーはおよそ30名。順調なスタートとなった。旧知の仲間も多く、ここは同窓会か?みたいな。ステップと伝統を中心に、プログラムが進められたらと思う。
年末年始の休みは長い、という固定観念があり、ゆったり過ごせるつもりでいるとたいていあっという間に休み最終日を迎えている。当然のことながら、休み中にやっておこうと考えていたことはほとんど終わっていない。今回も予想通りそうだった。明日はうちの職場の仕事始めである。
やるべきことを保留せずに今やればいいのだ。それだけの話である。ふつうの平日が巡ってくると、いつも今やるようにしている。だから持ち越しがないのである。休みが迫ってきてなんとなく緩んでくると、休み中にやればいいか……みたいな気分が襲ってくるのがよくない兆候なのだ。休みが迫ろうが、明日から仕事だろうが、きょうも仕事だとしても、やるべきことを保留しないのがスケジュールをこなすコツかもしれない。
毎度毎度の年末進行である。授業自体は20日に終わっているが、その後も地区のサービスの打ち合わせ、施設の司会ボランティア、一時金団体交渉、仲間のステップ5の聞き役など、次から次への一週間であった。
長年続けてきたホームグループのミーティングも、昨日司会をさせてもらって、明日で最後のミーティングである。相変わらず半分以上の人たちが話せないミーティングである。昨日はできるだけホームグループの仲間を指名したが、それでもさばききれなかった。新グループ発足でいくらか改善が進むだろう。
明日はようやく、例年より18日遅れの冬季一時金支給。そして年越し行事である青梅御岳でのフェローシップの雑用品買出しなど。持ち越していた仕事などもだいたいかたがつき始めてきた。
一週間もすればすぐに仕事始めである。年末年始は冬休みとはいえ、ふだんより慌しいのではないかと思える。
今日、今年最後の授業を行なった。後期はDTPが主なカリキュラムだが、学生の皆さんにアドビインデザインをマスターしてもらうのである。一時間半の講義と実習10回程度で、インデザインすべての機能を網羅することなど到底できない相談だが、基本のレイアウトグリッド設定を繰り返しやって叩き込むのである。もうほんとにイヤになるくらいにレイアウトグリッド設定の繰り返し。これできっと皆さんデジタルな割付ができるようになるであろう。そう祈っている。以前はページメーカーというソフトだった。ソフトも時代と共に移り変わっていく。それで現場に就職したらクオークだったりするので油断がならない。でも版下の土台を作る練習なのだから、ぜひとも身につけて欲しい。
----前回同様、学校での作家批評文のパート2です----
高橋源一郎氏は日本ジャーナリスト専門学校で非常勤講師をしていたことがあるそうだ。もう20年以上前の話である。ぼくが学校に教職員として採用され働き始めたのは17年前の1991(平成3)年であるが、そのときには残念ながら、すでに高橋氏は講師を辞めていた。したがってぼくと高橋氏とは接点はないままであった。
ぼくが高橋作品に触れたのは学生のときである。理科系の専攻だったので文学関係からは縁遠かったのだが、文化人類学を専攻している友人から勧められて読んだのが、高橋源一郎「ジョンレノン対火星人」だった。
海のものとも山のものともわからぬ、名前も知らぬ怪しげな作家の小説を買って読むほど暇でもないしカネもないと、その友人には返事をした。するとある日彼は文庫版の「ジョンレノン対火星人」をぼくの前に持ってきて「いいから数ページだけでも読め、絶対面白いから」と熱心に言うのだった。
ぼくは学内でバンドサークルに加入し活動をしていたのだが、彼とはそのサークルで知り合ったのだった。彼は富山の出身で、ぼくは福岡の出身である。ともに田舎の県立高校出身であるということで何かとウマが合った。バンドでは彼はベース担当で、ちょっとエキセントリックなメンバーだった。親の仕送りでかつがつ生活している身分にもかかわらず、彼はスタインバーガー製の新品ベースギターを買って見せびらかしていた。そのギターはまるで銃のような小さく四角いボディだったので、今も記憶に残っている。ぼくがサークルの部長になったとき、彼は副部長に名乗り出てくれて一緒にサークルの運営をやった時期もあり、卒業の少し前には同じバンドでストーンズのコピーをやったりしたこともあった。
さて彼が強引に勧めてきた「ジョンレノン対火星人」を手に取り、彼のいる前で数ページ目を通した。しかしちっとも面白く思えない。しょっぱなの章立てからして「ポルノグラフィー」である。そこだけ見ると安っぽい浮ついた娯楽小説というイメージだろうか。そもそも人と一緒にいるところで本を読むことなんて不可能なのである。簡単なビジネス文書であっても、その場でちょっと目を通してくれと言われて即座に文章を吟味することはぼくは苦手なのである。たぶん編集者にはなれない脳構造だろう。仮に短時間であっても独りになって落ち着いて文章を読んでみて、初めてぼくは文意がわかるという気がするのである。
反応の悪いぼくに対して、彼はさらに「森田の性格や嗜好を考えたら、必ずぴったりはまると思うよ」と言った。ぼくがこれを読んだところで、決して彼に利得があるわけでもないし何の他意もないようなのだが、ただ単に読んで欲しいらしい。ぼくは彼の熱意に根負けし、日を改めて「ジョンレノン対火星人」を自分で買って読んだのだった。
もう20年も前の話なので、実はあらすじをよく覚えていない。しかし登場人物の名前は強く記憶に残っている。だって「パパゲーノ」だの「石野真子」だの「すばらしい日本の戦争」だの「ヘーゲルの大論理学」というような名前が続くのだ。何これ?というのが第一印象だった。
しかし、読んでいくにしたがって、どんどん引き込まれていくこの感じは何だろうか。数時間夢中で読みつづけ、あっという間に読了してしまった。笑いが止まらない箇所、深く考えてしまう箇所、手に汗握る箇所など満載だった。今まで味わったことのない読後感だ。これまでぼくが読んできたフィクションは、横溝正史、三島由紀夫、夏目漱石、J・D・サリンジャー、ヘルマン・ヘッセ、といった、横溝を除けば教科書に出てきそうな作品ばかりだった。しかし高橋源一郎作品に出会って初めて、小説ってフィクションなんだから何でもありなんだよね、っていう発見があったのである。ぼくにとっては大きな転換点だった。そう、文章で書けることには無限の広がりがあるということ。文芸の「芸」に触れたはじめての経験だったのである。
その後も高橋源一郎の作品は、断続的にではあるが、ほとんど読んだのではないかと思う。「優雅で感傷的な日本野球」や「虹の彼方へ」が初期の作品として有名だが、ごく最近も「官能小説家」や「性交と恋愛にまつわるいくつかの物語」などを読んだ。初めて高橋作品に触れてから二十年経ち、ぼくの経験や人生は進んできたが、当初感じたインパクトは少しも衰えていない。それどころか構成や表現が洗練されてますます「芸」に磨きがかかっているように感じられる。
日記や文学評論なども多数上梓されている。その中でも出てくる石神井や原宿での高橋氏の生活はやけに生々しい。どこからがフィクションなのかよくわからないこともたびたびだが、そんなことはかまわないのである。読者を楽しませてくれる文芸の「芸」を高橋源一郎氏は持っていると思う。
文 森田泰彦(専任講師)