_ 高級牛肉店でしゃぶしゃぶコース。結婚記念日に何もしていなく、忙しさにかまけて時間が経ってしまったので、およそ一か月遅れではあるが二人で上野の「木曽路」に行った。肉はそれほど多くないのだが、野菜やきしめんやもちに押され気味だった。二人でだいたい一万円。たまに贅沢もいいかもしれない。
_ Webback Machineという、ウェブサイト情報の自動収集システムがあって、ぼくがウェブサイトを開設したばかりのころの文章小品がいくつか残っていましたので、このサイトに追加しました。1997年~2001年のものです。
なんと30代前半ですよ。UNIXやゲームやアニメにハマっていた頃がちょっと恥ずかしい。まだお酒もやめて4,5年くらいのドライな感じが心もとなく、いいかもしれません。独りよがりな長い文章をつらつらと書いていてやはり恥ずかしいけど載せておきます。
_ この年度替わりの時期は寄付講座自体の存続が危ぶまれ、わたしの首もつながるかどうかぎりぎりまで危なかったが、いろんなめぐり合わせが幸いして、また新年度フルタイムで働けることとなった。ほっとしている。 両親とも亡くなってまだ喪は明けていないのだが、冬の間に姉と一緒にグアムに旅行してくることができた。終わっていない埋め合わせがまだまだある。処理していないこともたくさんある。 サービス活動もまた波に乗ってきた。なるべく今やるべきことを今やっていきたい。当たり前のことなんだけど、コツコツとベストを尽くしていきたい。頑張らない程度に。
_ 専門学校が廃校になって職を失って以来、学問を再び志して学生生活を謳歌したのだが、昨年の年の暮れからふたたび仕事をいただくことができ、まるまる一年間働くことができた。しかも母校の東大に所属することができたのだから、わたしはとても運がいいと思っている。仕事の内容はいろいろと欲を言い出せばきりがないのだけれど、いろいろ自分でマネージしたり戦略を立てたりするのはあまり得意ではないし、むしろ与えられた職務を誠実にこなすことのほうが向いている気がしている。これは20代、30代に自己イメージしていたのとはまったく異なっていて、意外にもわたしは小市民であり一兵卒であり、自分の分相応の範囲で収まっているほうが居心地がいいサラリーマンだということがよくわかってきた。しかしながら、たいして創造性のないように見えるルーティンワークも、10年20年と続けていけば、不規則な事案に遭遇しても滑らかに対応できるようになってくるから不思議だ。経験というものは概念や枠組みを凌駕してくれる。その道を何十年も歩いている人に高々1,2年の新規参入が戦いを挑んだって勝てるものではない。そういうことを最近よく考えるのである。
人生はそんなに長いものではないと思う。すべては過ぎ去るし、同じ形でいつづけるものもない。私たちはユークリッド幾何学とかニュートン力学に毒されているので、唯物論的考え方に偏向しがちである。一つの光子が二つの格子を同時にすり抜けて向こう岸で干渉縞を作るなんてことを高校生の頃初めて聞いたとき、腰が抜けるほどびっくりしたものである。でも人生はその干渉縞そのものだ。縞の濃淡で一喜一憂しているのではないか。因果関係とか論理学が好きならば、それはそれでいいのだけれど、父が亡くなり母が亡くなり、自分だって本当に平均余命まで生きるのだろうか、積立気分で乗せてきた年金を一円ももらえないうちに脳溢血で倒れないという保証があるのだろうか。お金を稼ぐのが究極の目標にならないところはそこにある。仕事ができたこの一年に対して感謝しているのは、物心両方のことであって、身分や立場がもらえて尊重されているという感じがするからにほかならない。
40,50代で無職というのを味わったからこそこの次を大切に生きていきたいという気持ちが強いのかもしれない。幸いにもわたしには仕事以外にライフワークを見つけているし、大変な人数の構成員のメンバーたちと出会うことができた。今も日々新しい出会いに満ちている。苦しんでいる人が目前に現れたら、助けになりたい。また間接的な効果であっても、構成を改善することに全力を尽くしたい。みんなが尻込みするような大舞台にも仲間の後押しでひょいと出られるようになったし、この小市民のわたしには奇跡としか言いようがない。思うようにならないときには宗教宗派が仏の声を届けてくれるし、愚痴をこぼすと聞いてくれる人が一人や二人と言わずいる。考えの違う人たちとも無難にやり過ごせるし、うまく生きられるようになったものだ。
いろいろ小理屈を書いてしまったが、結局私はたくさんの人間関係に恵まれ、驚くべきタイミングで価値あるものを与えられ、サジェッションを受けているということである。耳さえ塞がずにいれば、短いこの人生で次々に与えられていくことだろう。
_ 気づいてみたら半年も飛ばしてしまっていた。フルタイムの仕事に復帰したのは2003年末以来なのである。しかもサービスの役割に戻ってきたこともあり、毎日毎日やることがたくさんあってうれしい悲鳴なのである。睡眠時間は十分確保しているのだけれど、エネルギーが余っていない感じ。忙しがっている人には「ほんとはうれしいくせにー」と言いたくなる。 無職で学生でもない空き期間が半年以上続きそうな勢いだったので、中央仏教学院の通信制まで始めてしまって後悔している。国際協力の委員とか仏教の勉強とか、たいていそのあたりのことは「もっと歳行ってからでもいいんじゃないの」と評する人が多いのが不思議だ。どっちも今すぐ役に立つことだから、なんで老後の楽しみにしなくちゃいけないんだろう。できたら漢字検定準一級や一級突破とか、全国国鉄廃線跡踏破とか、なるべく若いうちにやっておきたいことが山ほどあるんだけど。 でも今度また仕事がなくなったら、たぶんまた大学か何か受験するような気がする。忙しいけど、人生勉強ほど楽しいものはないですよ…。
_ 自宅と職場の往復に千代田線を使うという話を書いたが、東武鉄道の定期が切れてから都営バスをよく使っている。特に東京の東側の墨田区、江東区、台東区には縦横無尽に都営バスが走っていて、いまのマンションに引っ越してきてからもう間もなく四年になるが、バスの経路を完全に把握するに至っていない。自宅の最寄りバス停の「中居堀」を走るバスだけで三系統あり、押上や亀戸に出るとたぶん10~20系統くらいが発着しており、さらに上野や浅草や錦糸町といったターミナルとなると信じられないくらいの多種類の系統のバスが走っている。
中居堀から上野公園まで一本で行けるのが「上23」系統で、平井と上野松坂屋を結ぶので楽に行ける。ただ上野から農学部まで20分くらい歩く必要がある。あと根津駅と亀戸を結ぶ「上26」系統、これは本数が少ないのが難点だが、谷中や鶯谷、入谷などを通り、言問橋も渡ってくれて風景を見るのに楽しい。
仕事の後にちょっと遠出して杉並区や新宿区まで出るときにバスはちょっと不便。でも時間がたっぷりあるときなら工夫すれば都内のたいていのところには到達できる。しかし22:00台になると一気になくなるので注意が必要である。
_ たぶん世間的には標準的な長さの年末年始休暇であろう。12/29,30,31. 1/1,2,3の六日間である。木~火なので土日祝日も全部含まれている。官公庁や大手企業もこんなものだろう。サービス業だとかきいれどきなので休んでいられないのかもしれない。
しかしながら自分は長いこと専門学校で働いていたので、正月休みはとても長かった。たいてい12/26くらいから休みに入り、明けの仕事始めは1/6とか1/7あたりであることが普通だったのである。だから、暮れ三日間+正月三が日というのは記録的に短い。本当にあっという間に終わってしまった感じだ。
それに最近五年間は学生の身分だった。大学の授業スケジュールはその専門学校と大して変わらなかったし、研究が中心の院生になると授業なんかほとんど取らないのである。その代わりに年明けが卒論や修論の締め切りになることが多い。そうなるとカレンダーはあまり関係ないし、図書館や町のお店が閉まっていることがかえって不便になるくらいである。
短い休みが今日で終わり、また明日から仕事に行く。行くところがあり、やることがある。でもこれはとても幸せなことだし、人並みに生きられることはなかなか思い立ったからと言って手に入ることではないのである。時間のたっぷりあった時期が過ぎ去ったが、また新しい時間の流れのなかで暮らしていける楽しさがある。
_ 大学院生の二年間はいろいろあってお休みしていたが、今回は復職したし身近な仲間もたくさん来るといううわさも聞きつけて、青梅市御岳山の初詣&宿坊泊りに参加した。二回続いたレンタカーはやめて、西武線経由で電車登山、帰りは青梅特快。
少し早めに午前中家を出て山奥へと向かう。ケーブルカーの滝本駅で仲間と会う。むささび飛んでいるのに会いたいと思いながら登った2013年を思い出した。古生物学のレポートにムササビの絵を書いて提出した記憶。宿坊について一息。みかんを食べてゆったり過ごし、ふだん会っている仲間が次々に到着してくる。自分が古参になっていることはもう別に違和感はない。
食事を食べ過ぎないようにという過剰なコントロールもなく、食べたいままに食べ、カウントダウンに向かう。神社でたき火がなくてちょっとさびしい。真宗門徒だが気にせず柏手を打つ。信仰は自分の中では主義や主張ではない。助けてもらっているハイヤーパワーのそれぞれに感謝しているというだけである。ああ日本人的。
仲間と2:00くらいまで語っていた。いつも夜更かししない自分が、ちょっと珍しいパターンだ。布団に入っても睡眠に入れず、そのままご来光を見に出かけていく。日の出を見に行ったのは七年ぶりくらいかもしれない。いつも寝ていたのだ。朝のお雑煮やリンゴ蒸しを食べて出発。部屋に洋式トイレがあるのがうれしい。
ゆったりまた電車で帰ってくる。地下鉄がすいているし土休日回数券を消費できてまたうれしい。帰ってきて年賀状の返事を少し書く。喪明けだが30枚近く来ていた。つながりは大切にしたい。
_ 最近の街歩きブームの中では、谷中と合わせて谷根千と呼ぶのだそうだ。朝通勤のときに北千住から回って千駄木に出て、日本医大の横から根津権現の裏手を登り、地震研究所の下へ出る。テモテ教会を折れると、今年からここの門徒とさせていただいた西教寺に向かう。向かう途中で老舗旅館更新館がある。更新館には18,19歳のとき、東大受験で相部屋に宿泊した。そして通勤の散歩は農学部正門で終わる。坂が多くて狭い道。でも味わいのある下町だ。西教寺にも赤門があるんだよ。東大の赤門と同じく、徳川七代目将軍家斉の娘を嫁にもらった侍が建てたようだ。将軍家の娘をもらう時には朱塗りの門を建てるのが縁起がいいとされたらしい。 きょうは帰り道、言問通りから根津の駅前へ降りて行った。電車には乗らずそのまま谷のどん底をつき、坂を上り始める。谷中と上野桜木の間を抜け、坂を上りきる前に左へ折れると京成本線が地下に潜るトンネルから轟音を立てている。夜の墓地を歩く。霊気が漂っている。東大の動物実験の慰霊塔のようなものが谷中霊園の中にある。抜けて山手線、京浜東北線、高崎線、宇都宮線、常磐線、京成線とたくさんの線路をまたぎ、王子街道へ出る。少し行くと日暮里の駅前である。 1988~1990には本郷の郵便局裏にアパートを借りて住んでいたのだが、今度はまるっきり反対側を通勤で通う道に使っている。
● つくし野 尾崎 [森田さん、明けましておめでとうございます。 なにか、森田さんの言わんとしているところ、すごく共感できます。 私は..]