夏休みと言っても授業が学期と学期の間で一時なくなるというだけで、集中講義が始まるし、研究は本格的になるし、ふだんより高密度の生活になるかもしれない。この木曜から日曜にかけて、神流川上流の上野村へフィールドワークに行ってきた。ぼくの研究は河成段丘なので、川沿いの山間の人の住んでいるところに大変興味があるのである。三泊して山の中にいると、人生がちょっと変わるような錯覚にもとらわれる。PHSが全く入らず、電話もメールも無線LANも入らない期間だった。妻に電話するにも公衆電話しかない。授業期間はまとめて移動できないが、この時期はこういうことが可能なのである。学部のときにも野外実習が夏休みにたくさんあって楽しかった。夏の日差しに汗だくになりながら村を歩き、山を登り、測量をして写真を撮って、野帳に記載していく。まだ初学者でしかないし何もわかっていないのだけれど、なんだかいっぱしの地質学者になれたような気分になるから不思議だ。何か月も泊まり込んで、ずっと研究をするような日はやってこないかもしれないが、その片鱗を経験できるだけでも楽しい限りである。
たしかに重い、つらい、暑い、疲れる…などマイナスの要素ととらえれば、それもきりがない。問題は「とらえかた」なのだと思う。フィールドはつらいと力説する人たちもいる。なんでそんな言い方をするのか、もったいない気がする。蚊やヒルに噛まれて、たしかに気持ちはよくないかもしれないが、それに余りある楽しさがある。地図を見ているだけでも楽しいのに、実際自分が現地に足を運ぶことが、旅行の道楽ではなくて仕事や研究につながり、地球の不思議さを解明できるのだとしたら、こんなに面白いことはない。地球や山や海は、今までもずっとそこにあったのだ。この面白さに気づかなかった自分を最近になって不思議に思う。仕事を失わせ、学生に戻らせてくれた神様と運命に感謝したい。
常任理事の任期を終えた鹿児島の仲間ががんの宣告を受け、しかも末期ということで大変心配していたが、冷酷なことに病気は粛々と進むばかりだった。亡くなった日の朝、うちの今年の朝顔の最初の花が開いていた。彼のスポンサーから訃報のメールをいただいていたのだが、たまたまネットにつながる環境が夜までなくて、知ったのはぼくが北九州の実家のそばのモスバーガーでPCを開いたときだった。病気を宣告されたのが6月23日らしく、ぼくが彼と電話で話したのが6月25日、鹿児島に会いに行ったのが6月30日、こん睡になっているのがわかったのが7月7日、そして7月11日に帰らぬ人となってしまった。宣告から亡くなるまでわずか19日。あまりにも早かった。
しかし、70歳の誕生日を迎え、ソブラエティ20年を迎え、あわてず騒がずにこやかに人と接していた。身辺を整理し、遺品だと笑って言いながら愛用品をいろんな仲間に分けていた。励ましに行ったつもりが、本人は落ち込んでなく、逆に食事までごちそうになってしまった。一緒に食べた最後のシロクマ(ミルクかき氷)、ぼくは忘れずにいつづけるだろう。
日帰りで九州第二弾となってしまった。鹿児島の仲間が末期がんとのことで急行した。とにかく驚くばかり。わたしにできることはなんだろうか。最近このような話題が多い。全力を尽くして生きていきたい。
九州の実家に日帰りで行ってきたのはこの48年間の人生で初めてかもしれない。土曜、日曜も含めてほとんど空き日がないのである。しかし父の病状は自分の目で見て確かめるしかない。意識は依然として戻らないままだが、すでに三か月と三週間が経過している。
成田空港を使ったジェットスターのLCC。これなら航空代金往復15,000円を切っている。福岡での交通費と成田への交通費もバカにならないが、従来のスカイマークやスターフライヤーに比べたら一気に飛行機デフレが加速している感じである。
二月に父が倒れてから、三月、四月、五月と毎月帰福している。どうなるものでもないのだが、親は親であるし、当たり前のことをできる限りして尽くしたいという気持ちである。
大学院の毎日が始まって一か月が経った。学部のときと同様に、大変忙しくやることが多いうえに、メインキャンパスが本郷から柏に移ったことで、通学にも時間がかかるようになった。月、火、木は柏で新領域創成科学研究科の授業と研究室のコロキウムや論文講読など、水、金は本郷(理学系研究科)と弥生(地震研究所)での授業である。学部生のときには大学院開講の授業を受けることができなかったが、大学院生になると学部と院の両方の授業を受講可能である。
柏キャンパスでは他大学の出身者が多く、物事を多角的にとらえることも要求される。実験室で作業することも多いし、自分のやることを計画的に進めなくては、雑事に埋もれて研究を見失いかねない。自由な分だけ、努力の水準も上がっている気がする。
一か月いろいろとタームを回して、連休中は横浜で地球惑星科学連合の学会もあり、先生方も含む優れた発表者たちのプレゼンを聞くことができて、良い刺激が多かった。連休が終わってからまた日常の授業と研究に戻る。使える時間が非常に限られているのを感じる。できることは尽くそうと思う。
この学業に復帰するのに何段階も助走をつけてきたことを思い出す。2008年に全体サービスの役割が終わり、何かをスタートしようと目論んでいた。新しいグループを始めたのもこのときだったし、放送大学の全科履修生としていろいろな教科書を実際にお金を出して開いたのもこのときである。仕事はまあ現状維持といった感じだった。学園は経営が行き詰りつつあったし、労使交渉も難航していたのだった。放送大学でTV番組で学ぶだけだったらあまりモチベーションは上がらなかったかもしれない。面接授業で10数年ぶりに学芸大学の学習センターに行ってみたことがよいきっかけとなった。茗荷谷の筑波大学や小平の一橋大学も放送大学の校舎として使われていた。大学に体を運ぶと血が騒ぐのかもしれない。カルチャーセンターにも興味があったが、学府はやはり違うのである。
秋になって中曽根康弘元首相の講演があるということで、何年かぶりで本郷キャンパスを訪れた。世論の評価では賛否両論のある人だが、名士には違いないし、自分は政策はともかくとして、この人の雄弁さとパフォーマンスは好きだった。このイベントはホームカミングデーという卒業生の同窓会のようなものだった。他のゲストだったら行かなかったかもしれない。講演を聞き、元首相をライブで見られたことに感動して帰路についた。本郷近辺を散歩した。アルコールから離れて10年以上たっていたので、昔飲んでいたアパートの外観くらいは見ても悪くないと思った。五丁目にはまだあの壁の赤いアパートが残っていた。古い銭湯もお寺も酒屋も。いろんなことがよみがえってくる。
自分はしらふでやり直しているということを痛感し始めた。そして今なら何かまたできるのではないかと思った。ドイツ語検定を試しに受けるため慶応の日吉にはじめて行った。検定は五級から始めた。しかし三級まで来てなかなか突破できない。放送大学の単位取得を進めていきながら、語学や各種検定などいろいろ並行して手を出していった。最初のTOEICが380点しか取れなかったのはショックだったが、繰り返しているうちに少しずつスコアがアップしてきて、上り坂を進むのは楽しい。ドイツ語検定も苦労の末、三級に合格した。そして放送大学の単位が揃い、卒業できた。勉強ってやはり楽しかったのではないか。それを思い出せたのだ。
2010年、2011年となり、いよいよ経営難で仕事を失うことになった。最大のチャンスだった。ふつうは収入がなくなるのでピンチととらえるのかもしれない。仕事があるのにわざわざ辞めるのは不利だし逆風にもなるが、会社都合で辞めるとなれば自他ともに対して言い訳ができるし、退職条件や失業給付も決して悪くない。仕事があるとフルタイムで大学には行けないということばかり考えていたから、このチャンスで大学入学だと思ったのである。
ただ、復帰は簡単でなかった。学士入学にトライするが次々に落とされる。農学や教育学、さらに、はるばる京都大学まで受けにいったが、見事に全部落とされた。そんな落ち込みの中で、昔の恩師が研究生として迎えてくれたことは、本当に厚情に感謝したい。しかしそこからが苦労のスタートで実力がなかなか伴わない。工学系研究科を受験したが不合格だった。要は英語力である。およそ20年ぶりに取り組む英語にはまったく苦労した。何回TOEICとTOEFLを受けたことだろう。英検も徹底的に基礎からということで、なんと4級から始めた。聞き取れないのである。小学生たちと一緒に検定を受け、なんとか二級までクリアした。研究生の間に徹底的に数学と物理、化学を復習した。そしてようやく2012年に理学部に入れたのだった。
学部に入ってカリキュラムに乗ってしまえば、あとは他の学生たちと一緒に泳ぐだけである。学問は荒波だと思う。手を抜いて浮かんでいては、どんどん流され溺れてしまう。とにかく泳いでいなくては先に進めない。理学部三年次、四年次と必死に泳いだ。論文にも短い間だったが取り組んだ。なんとか期限に間に合った。必死に泳ぐと定期試験も大学院入試も、それなりのレベルに達することができる。わかると面白い。授業中に先生が学生にときどき質問するのだが、それにときどき答えられる自分に気が付いたときに、これなら行けるという気がした。そして今がある。
チャンスとタイミングを逃さず、必死についていく。それでなんとかやっていけるだろう。生活や収入は当面二の次だがそれもやむなしであり、支えてくれる家族や友人に感謝したい。
近所では桜が満開なので散歩する。墨田区と江戸川区の境を旧中川が流れており、土手が散策路になっていて心地よい。白髭神社や立花図書館などがある。河原の休憩所で昼食。日光が降り注ぐとちょうどよい気温で、鳥が周りを飛んでいる。
大学院のガイダンスが3日、そして4日から授業開始である。柏中心の生活になってちょっとパターンが変化しそう。
何年かぶりで、近所のミーティングへ行った。知ってる仲間が何人かいてお互い驚く。歩いて帰ってきてまだ20:45。火曜は研究室会なのでここに出られるのは、この春休みのみである。
割賦割引が終了してしばらくすると、ほぼ無料で機種変更ができるウィルコムのシステム。折り畳めるHoneyBeeBox(青)を約三年間使った。色合い鮮やかなパステル系(原色)で、子どもたちが持っている携帯っぽかったのだが、今度はぐっとシックな黒のLIBERIOにした。機能はほとんど変わらない。しかし防水があるし緊急防災警報も鳴るし、日英バイリンガルモードもあったりしてちょっとうれしい。機種を変えるたびに、素材が頑丈で軽くなっていて、バッテリーの持ちもよくなっていることに驚かされる。また三年くらいはこれで行こう。
この2014年の3~4月は自分にとって大きな前進の一歩である。それは悲願だった大学院進学が実現するからである。48歳にして初めての大学院生活。「院生」(修士課程)にはじめてなる。英語の試験が大きな障壁になっており阻まれている感じだったが、二年半にわたってTOEIC,TOEFL_ITPを受け続け、ようやく合格水準に達したのだった。また、学部の授業で大気海洋、地質・地理学などの専門分野の授業を受け続け、レポートや試験に取り組み続けたのは、自分の知識や技術を底上げできたと感じる。二年前の入学時よりも四年進級時、そして一年前よりも現在の学部卒業時のほうが、はるかに多くのことを理解できている。ローマも学問も、一日にして成らず、である。
卒論の修正を二月末に提出した。そして実験の方法など基礎手順のマスターに取り組んでいる。読まなければならない英語の論文もあるので、この春休みの授業なし期間もやることがたくさんある。
公式な卒業アルバムを購入した。24年ぶりである。年齢はちょうど当時の2倍で、周りの学生さんの写真に比べて明らかに老けている自分がいる。でもクラスの皆さんは親のような世代の自分に対してとても親切であった。感謝の限りである。
来週は卒業式があり、ジュニアTAであるキャンパスツアーのフェアレル納会もある。そして新しい所属の研究室で新入生歓迎の自主巡検、そして理学系研究科の新入生ガイダンスもある。新学期の授業をどう組むかをいま指導教員に相談して決めつつある。毎度授業開始前のもっとも楽しいプロセスである。
柏と本郷を行き来する毎日がまた4月から始まる。おととい自転車を柏まで自力で移動したぞ。要するに東京から自転車を漕いで行ったのだ。これで柏キャンパスと東武江戸川台駅を往復できる。
研究室の自分の席も新しくいただいた。桜が咲くころに幸先よく大学院修士生活のスタートである。
ふたたび北九州へ。マイレージを使い切って往復。父の意識は戻らないままだが、脳にたまった血塊を抜く手術と気管切開は成功したようだった。話しかけるとまぶたが少し動く。ちらと目が開くときもあるがまたすぐに閉じる。気管を切開しているので声も出ないわけだが、意識のあるなしも確認できない。
元気なうちに親孝行しておけばよかったと後悔している。もっとできたのにと思うが、時計の針は戻らない。かといって実家やその周辺に帰って、新しい生活をできるか(できたか)というと、できもしない。小倉で研究生活はおそらくできないと思う。現実は厳しい。
息が荒かった状態からは抜け出して、肺炎も治癒して熱が下がったようである。倒れてから一ヶ月経った父の意識は、いったいどの方向に向かうのか。
病院から実家に戻ると、まだどうにか歩ける程度の母がいる。母にもできるだけのことをしておきたい。
いったん東京に戻って研究に戻ったが、また小倉に行かなくてはと思う。
大学院の入学料\282,000と授業料\535,800(年額)の免除申請のためにいろんな証明書を発行してもらいに、あちこちのお役所を走り回っている。一般的な学生たちなら親の年収で一律に決まるようなのだが、自分の場合は当然のことながら親とは独立家計になって久しい。そうなると、自分の収入や妻の収入、そして親とは扶養関係が切れていることを示す公的な書類がいる。確定申告は現住所地にしたが、昨年まで住んでいたところに住民税の証明を取りに行かねばならないし、父が倒れたのでその代理で父の関係の書類が必要なのだが、意識がない人から委任状は取れないので、戸籍で実子であることを証明せねばならず、本籍地の役所に行かなくてはならず、最近では郵送請求でも本人確認が必要だったりする。個人のプライバシー保護のためのセキュリティが二重、三重の足かせになっていて、思うように証明書の発行ができないのは本末転倒な感じである。自分の戸籍謄本を取りに来ているのに利用目的をしつこく聞かれ、めんどくさくなってきて、あーそれは××市に取れと言われたので言われたとおりにしているだけです…なんてぶっきらぼうに語気を強めて答えたら、ますます怪訝な顔をされてしまった。いまどきは妻の所得証明ですら委任状がいるなんて言われ、え?委任状?なんでですか?と問い質してしまった。住所地でないので今確認ができないですからと答えたので(それって別れたかもしれないという意味?)、エネルギーもったいないのでもうあまり突っ込まなかったけど、行政サービスの根本が「まずは疑ってかかれ」になっているように思えて、少し悲しい気分です。とにかく減免を実現したいというそれだけ。
● 吉田和夫 [やるべきことをやったと思うことは自分の力だけではないことと思います。]