授業終了、試験終了、組合の会議も今日で終了。
きょうは会議が三つもあり、しかも、こちらの都合などお構いなしに設定されているため、うしろ二つはどうしても遅刻して出ざるを得ない、気持ちの悪さであった。しかも、事前に遅刻していくことを申請済みである…という、世の中ではごく一般的な、チェーンスケジュールなので、すこしわたしの「時間の過程嗜癖」も中毒的で、気持ち良い。とにかくそんな感じなので、きょうは何も考える余地もなく、自動的に一日が終わった。
金・土、とまた次々と、残る処理を行い、土曜の夜から火曜まで福岡入りだ。福岡に行くといつも、東京を憧れ、東京に戻ると福岡を懐かしむ。いま、ここの、自分のいる位置を愛してみたいものである。
はじめて受けてみた。高円寺の河北である。バリウム、うげーって感じ。でも検査だ、検査。大病が見つかったら、それこそ、死の予防である。明日、死ぬかもしれない……という仮定のもとに生き始めてから、ずいぶん生きることが楽しくなったよ。いやほんと。
週末に向けて、一気に円が上がってきたね。売りを先に出していたNZドル、豪ドル、米ドルを、今日まとめて一気に決済して買い戻した。これでまあしばらく、為替の動きに一喜一憂しないで済みそう。落ちるときも上がるときも、すごいレバレッジで、血は沸き、肉踊る、だね。戦果は……秘密です。一時期ウン万円の含み損を抱えていたが、ともかくも黒字に転じて胸をなでおろしている。
ああ、仕事は終わらないよ。思いのままにならないこと。まあ、だから仕事なのかもしれんが。金髪計画は順延である。
ようやくまた一山越え、二山越え、落ち着くことができる。自分にしかできなさそうなものを与えられると、やはり張り切ってしまうね。生きている役割があるという感じがする。もちろん思うようにいかないことのほうが世の中にはたくさんあるのだが、その苦難も神の万能を証明するための計画と思えば、これもまた楽し。書けないようなことも多いのだが、最近はいろんなことが必然的に起きているという感じがしている。ずっと前から決まっていたのかもしれない、と。だからぼくたちはいちいちそんなことくらいで反応したりせず、大きなもののたなごころの上で、風の気持ち良さに感じ入っていればいい。
そしてまた明日も何かの役に立てるだろう。
夏休みと言っても授業が学期と学期の間で一時なくなるというだけで、集中講義が始まるし、研究は本格的になるし、ふだんより高密度の生活になるかもしれない。この木曜から日曜にかけて、神流川上流の上野村へフィールドワークに行ってきた。ぼくの研究は河成段丘なので、川沿いの山間の人の住んでいるところに大変興味があるのである。三泊して山の中にいると、人生がちょっと変わるような錯覚にもとらわれる。PHSが全く入らず、電話もメールも無線LANも入らない期間だった。妻に電話するにも公衆電話しかない。授業期間はまとめて移動できないが、この時期はこういうことが可能なのである。学部のときにも野外実習が夏休みにたくさんあって楽しかった。夏の日差しに汗だくになりながら村を歩き、山を登り、測量をして写真を撮って、野帳に記載していく。まだ初学者でしかないし何もわかっていないのだけれど、なんだかいっぱしの地質学者になれたような気分になるから不思議だ。何か月も泊まり込んで、ずっと研究をするような日はやってこないかもしれないが、その片鱗を経験できるだけでも楽しい限りである。
たしかに重い、つらい、暑い、疲れる…などマイナスの要素ととらえれば、それもきりがない。問題は「とらえかた」なのだと思う。フィールドはつらいと力説する人たちもいる。なんでそんな言い方をするのか、もったいない気がする。蚊やヒルに噛まれて、たしかに気持ちはよくないかもしれないが、それに余りある楽しさがある。地図を見ているだけでも楽しいのに、実際自分が現地に足を運ぶことが、旅行の道楽ではなくて仕事や研究につながり、地球の不思議さを解明できるのだとしたら、こんなに面白いことはない。地球や山や海は、今までもずっとそこにあったのだ。この面白さに気づかなかった自分を最近になって不思議に思う。仕事を失わせ、学生に戻らせてくれた神様と運命に感謝したい。