まだ3月だよ。でも来年のことをいろいろ考えている。理事の選挙も今年あるだろうし。間をおいたらもうきっとやれそうにないかなとか。このままグループのことをふたたび始めるのもいいかも。
最近はどうもダメな感じ。良い考えが浮かばない。
おこないの伴わぬ信仰は死んだものである。行動あるのみ。反復は信仰に変わる。量は質に変わる。逆は偽なり、だ。
近頃、あまり詳細にここに書く気がしてこない。書けないことも多いのだけど、みんな世界が既に違うという変な諦めも多いのである。おそらくはわかりあえないであろうという絶望的な感じ。われわれは共通の経験の上にこそ立ち、そして共通の話をするはずだのに、どうも孤立が進んでいる気がするのだ。やればやるほどそういう感じになる。
でも必要なことはし続けて行きたい。そして続けて行かないと、われわれは死を迎える??はずではないのか。
最近なんかあまり夜更しできないのだ。22:00台に寝てしまうことが多い。23:00台に寝る仲間が、蔭でコテンパンに批判されているのを聞いてぞっとしたことがあったが、それよりひどいね。でもしょうがないじゃん。眠いんだし。
毎朝7:00に、あるいはもっと早く起きなくてはいけないならば、24:00前に寝るのはごく当然という気がする。まあ睡眠時間の短いことを無根拠に自慢している人種もいるので、それはそれでおつかれさま…というしかないが。
きょうは、午前中は杉並のバザー場へ、午後は清瀬の施設へ行った。ダブルで救世軍である。バザーでは二輪教習用のジャンパーと手袋を購入。仲間と小一時間話しながら時間を過ごし、そして昼前に清瀬へ移動。清瀬では月一回のメッセージであった。
うまくいっていると感じ、心の平和が得られるのは、欲張っていないときである。とは言っても当然のことながら生きている限り欲は出てくる。コントロール喪失のわれわれが、どうやってそれらの欲をコントロールし、社会や家庭で生きていくのか。それが最大の問題だ。
大学院の入学料\282,000と授業料\535,800(年額)の免除申請のためにいろんな証明書を発行してもらいに、あちこちのお役所を走り回っている。一般的な学生たちなら親の年収で一律に決まるようなのだが、自分の場合は当然のことながら親とは独立家計になって久しい。そうなると、自分の収入や妻の収入、そして親とは扶養関係が切れていることを示す公的な書類がいる。確定申告は現住所地にしたが、昨年まで住んでいたところに住民税の証明を取りに行かねばならないし、父が倒れたのでその代理で父の関係の書類が必要なのだが、意識がない人から委任状は取れないので、戸籍で実子であることを証明せねばならず、本籍地の役所に行かなくてはならず、最近では郵送請求でも本人確認が必要だったりする。個人のプライバシー保護のためのセキュリティが二重、三重の足かせになっていて、思うように証明書の発行ができないのは本末転倒な感じである。自分の戸籍謄本を取りに来ているのに利用目的をしつこく聞かれ、めんどくさくなってきて、あーそれは××市に取れと言われたので言われたとおりにしているだけです…なんてぶっきらぼうに語気を強めて答えたら、ますます怪訝な顔をされてしまった。いまどきは妻の所得証明ですら委任状がいるなんて言われ、え?委任状?なんでですか?と問い質してしまった。住所地でないので今確認ができないですからと答えたので(それって別れたかもしれないという意味?)、エネルギーもったいないのでもうあまり突っ込まなかったけど、行政サービスの根本が「まずは疑ってかかれ」になっているように思えて、少し悲しい気分です。とにかく減免を実現したいというそれだけ。