春先暖かくなった頃に種をまいた朝顔が、今朝咲いていた。なんかもう理屈抜きでうれしい。とてもうれしい。まだ当分開花は先のことと思っていたし、この狭いマンションのベランダの鉢植えが本当に咲くなんてね。
気をつけたのは二点。日中太陽の光がよく当たるようにしたことと、二日以上晴天が続いたら水をやっていたということである。水は一度ポットで煮沸して冷ましたものを、コーヒーカップであげていた。猫に水を飲ませるようなものだ。カルキはいけないと直感的に感じていたのだ。
しばらくしたら梅雨も明けるだろうか、もう一度種まいて咲かせるか…。双葉が出たときも感動したが、花も感動。ガーデニングマニアな人たちの気持ちが、ちょっとだけわかったような気がする。
京都二日目。京の烏丸の中心地にある六角堂を訪れる。ここは親鸞上人が若い頃、百日連続で通い詰めたというお堂である。聖徳太子のお告げを受けたのは95日目の早朝らしい。救世観音による女犯の夢告と呼ばれているようだが、これがきっかけで親鸞はさらに百日の間、東山の法然上人のもとへ通ったということのようである。
これが親鸞上人29歳のときのことのようだ。自分の29歳は、霊的目覚めと性的目覚めがいっぺんに来たような頃合であった。今と昔では事情もぜんぜん違うのかもしれないが、欲望といかに付き合っていくかは大きな課題だったと思われる。性欲に限らず…だが。だいたい今のこの世の中で、百日も続けて師匠のもとに通う気力など生まれてこないのではないか。行動は三ヶ月で習慣化するというが、八百年も前に親鸞上人はそれを肌で知っていたとしか思えない。六角堂の金平糖を買いながらそんなことを考えていた。
ついつい必ず行ってしまうお寺、銀閣寺である。残念ながら改装工事中で、上半分はまともなのだが、下半分は見るに耐えないあばら状態であった。このままだと、しんとしたわびさびの心が感じられない。角度を変えたり、裏山を上がったり降りたりして、よいショットを探す。するとちょうどよい風景があった。
初の金閣・銀閣体験が25年前の冬だったのだが、ちょうど雪が積もっていたのである。あれが美しすぎたのだった。それを求めてもふだんはそのレベルに達しない。次に来るときは雪の日に来たい。
土曜は市バス一日券でバスに乗りまくったが、二日目は極力電車を使った。京大での授業が終わってから鴨川まで歩いて出る。京阪の出町柳駅。東京の金町浄水場や、京成高砂近くの貨物線が走っているあたりのような雰囲気である。祇園四条まで乗り、阪急へ乗り換え。八坂神社の前の祇園のあたりは、北九州によく似ている。小倉の祇園太鼓や小文字焼きは京都のパクリだからである。
鴨川の岸辺に御茶屋の張り出し座敷が出ている。一杯やってる人たちもいるし、浅草にも似ている。路地の中をのぞくと、京都には珍しく風俗店の看板らしきものも発見(「巨乳専門」と書かれていた)。雄琴まで行かないとそういう店はないものと思っていたが、どうやら京都にも需要があるらしい。
雑多ではあるが、大阪や新宿のような卑猥さがない。街がきれいなのだ。ごみが皆無というほどでもないのだが、やはり「しまつ」がよくされている感じがする。
阪急の河原町から電車に乗り、伊丹空港のある蛍池へ。京の二日間を満喫した。授業は二日間出たが、実はそんなことはどうでもよいことなのだった。
放送大学の面接授業を口実に、京都へ行ってきた。四年前の春の納経以来である。授業の会場は京都大学総合博物館。百万遍の京大キャンパスの中に建物がある。初めての京都大学だ。ちょっと興奮した。東大に初めて行ったときは18歳の冬だったが、今はもう43歳の夏である。子どもの興奮と大人の興奮はちょっと違うぞ。何が違うかって、大人の心はいろんなもので汚れているということだ。皆さんの想像の通りであるから内容はあえて言わない。
京都大学は入試の選択肢には入らなかった。入試の難易度(偏差値)はほぼ東大と同じである。定員が学部学科ごとなので、入学時に決めた学科がそのまま卒業学科になってしまうというのがちょっと怖い。東大は理科一類(工学系)とか理科二類(農学系)とか、大雑把なことしか決めないで入る。だから入学後の進路が柔軟なのだ。それもあるし、東大は入学後は東京で暮らすが、京大は入学後は京都で暮らすのである(当たり前だが)。18歳のぼくは京都にあまり魅力を感じなかったのである。というか、東京の魅力に引き寄せられていたんだと思う。
大学の中の雰囲気とか建物とかはどこでも大して変わらないが、京大は理学系の湯川秀樹とか朝永振一郎とかがあまりにも有名だし、西田幾多郎の哲学の道とか、やはり象牙の塔のイメージが根強い。主観的なイメージだが、品がよいような感じがする。これは大学に限った話ではなく、京都全体が持つイメージなのである。
夜行高速バスで京都に着いたので、一日のスタートが午前六時であった。四年前父と来たときに午前八時半でそれでも早いと思ったのだが、さらに二時間半も早い。すでに開いてる寺なんてあるのだろうかと思ったが、なんともう西本願寺は開門していた。会社やお店と違って、寺院は日の出とともに開き、日没とともに閉まるようである。
西本願寺ではすでに僧侶による読経と説教が始まっていた。うやうやしく聞く。こんな早い時間にたくさんの人だかり! けっして老人ばかりではない。若い人や女性も多い。さすが京都である。
そして祖母の納骨のお参りに行く。ところを変えて五条坂の西大谷(大谷本廟)である。入り口で堂々と親鸞聖人の銅像が出迎えてくれる。旅先で知っている人に出会えたようなうれしさだ。朝の読経受けつけが八時半からということだったので、面接授業が終わってから再度夕方訪れた。読経用の個人カード(4年前に父が持っていたものと同じ)を改めて作ってもらった。これでもう一人でも来れる。
すでに33回忌を過ぎた祖母へお経を上げてもらった。短い法話もしてもらった。仏様はいつもわれわれを見守っているというような話である。汚れた心でも救ってくださるその度量の広さ。だからといって汚れたままでよいというわけではない。それでは「本願ぼこり」である。汚れた心で聞きながら、汚れた心を正していきたいと祈るのみである。
恥ずかしながら今まで自分の数珠すら持っていなかったので、大谷本廟の売店で数珠を買った。参拝明細はオンライン電算化されていて、祖母の法名がきちんと印刷されて出てきた。なんだかたったこれだけのことで、自分が死んでも必ずきちんとしまつをしてもらえる気がしてくる。まだまだ先のことだとは思いたいが…。
夕食は餃子の王将に行った。関西で王将に入るのはこれもまた初めてである。太子道店。セットメニューは関東版より安めの設定である。から揚げと餃子、ライス。餃子の味は関東とあまり変わらないかな。から揚げの衣がちゃんとしている感じ。関東はまぶしただけだけどね。
たまたまかもしれないが、「餃子10人前下さい」とか「から揚げと餃子どっちも三人前」とか、大人買いに訪れる客多数。一家揃ってみんなで餃子食べているのか、京都の人たちは。すごいね。
旅行会社のパックに設定されていた大阪のホテルに宿泊。夜行バス+ビジネスホテル+JAL伊丹→羽田で計19,300円。バラバラで買っても同じくらいだろうか。京都で泊まると値段が跳ね上がるようだったので、阪急電車で京都大阪間を移動。夜行バスの疲れもあってか、ホテルに着いたらもう繁華街に遊びに出る気力もなく午後九時過ぎには就寝。深夜スポンシーから電話が入るが、嫌がらず誠実に対応(偉い!)。その後朝までまったく目覚めなかった。
不安の中で新しいことをやってみると、思いもよらない発見がある。幸せが訪れるのはそうしたチャレンジによるところが大きい。古いものを手放すと新しいものが手に入るようである。
新しいことをはじめるときのエネルギーは、これまで培ってきた馬力と、まったく想像もつかなかった発想、そして導きを受けようとする広い心から生まれる。
別世界のものが自分の内実になる。これまでそういうことが起きてきたように、これからもそうであろう。
午後四時からタワーレコード渋谷で「楽しい夕べに」と題されたイベントがあり、参加した。夜九時くらいまで五時間ぶっ続けのイベントである。青山ロックンロールショー並みである。
何かというと、キヨシローの追悼DVD上映会だった。84年の「The Tears of a clown」、94年の「Glad all Over」、そして2008年の「完全復活祭at武道館」の三ライブの上映だった。タワーレコード地下のイベントホールだったので、大画面大音量で、まるでライブハウスのノリである。
84年はたしか見に行った。94年はぼくは日比谷公園でギターを弾いていた。昨年は残念ながら見送ってしまった。
ビデオを見ているにもかかわらず、会場では拍手や声援がだんだん大きくなっていった。アンコールさえ出る始末。アンコールタイムには新譜「Oh!Radio」のプロモーションビデオが流された。
新宿店でも追悼会をちょくちょくやっているようである。違う音源のときにまた参加したい。
今週末は父の日である。昨日伊勢丹で魚の切り身を買い、クール宅急便で送るべく手配した。昨年9月より実家に帰っていない。台湾旅行みたいに、否応なく日程を入れてしまえばそれで行けるんだが、今ひとつ気乗りがしないでいる。
父の老後をそばについて伴走できないのが気がかりでいる。姉に丸投げしてしまっているのが心苦しい。
父の最近の興味は投資信託であろうか。株価の暴落でたぶん痛手をこうむっただろうなあ。欲をかかないで生きていて欲しい。それはぼく自身にも言えることなのだが。
ぼく自身のつつましい財産のポートフォリオを書いて、父に送った。流動資産、年金・共済、不動産など。自分自身も整理できたし、たぶんぼくに対して父が知りたいのはそこだろうと思ってのことである。父の日のプチプレゼントになっただろうか。
昼休み食事に出て戻ってくる途中、やけに明治通りに警官が出ている。私服の人たちも交差点ごとにいる。私服警官は、ネクタイなしのスーツでイヤホンをしていて、スーツの襟元に安全クリップをつけていたりするのですぐわかる。皇室の誰かが通るのだろうと思いつつ、あまり気にも止めずに歩いていた。歩道橋を渡ろうとしたとき、車の流れがぴったり止まった。あれは信号機を操作して、交通量を減らして渋滞しないようにしているみたいである。
歩道橋をのぼろうとするぼくに、私服警官が駆け寄ってきた。「いまから天皇陛下がここを通るので、急いで渡ってください」と。???。よく意味がわからない。急ぐ? そうか、天皇陛下の車が通るのだから、その真上の歩道橋を一般の国民が歩いているのは失礼千判!頭が高い、ということなのだろう。せきたてられて、小走りに歩道橋を渡った。
渡ったところで見ていると、完全に民間車両が入ってこないようコントロールされているがらがらの道路に、白バイに先導された黒塗りの車が入ってきた。先頭の車両はダミーのようで、次の車両が天皇陛下の乗っている車である。後部座席右側に天皇陛下が乗っておられた。歩道橋を渡っていたおかげで、かなりの至近距離から顔を見ることができた。皇居での一般参賀なんかとは比べ物にならないくらい、すぐそばである。
父と確か同じくらいの歳だったよなあ、と思う。最近SPA!で小林よしのりが書いていたように、福祉や社会活動に尽力されているのであろう。あまり気安く近づくべきではないとぼくも思っているが、国家的有名人なので、こうして顔を見られるのはやはりうれしい。
立川の施設にボランティアに行ってから、昼下がりに仲間と会う。吉祥寺の街は過去の記憶になりつつある。仙川や三鷹に住んでいたときによく買い物に出た。あまり変わっていない印象。でもヨドバシカメラの進出や違法駐輪の撤去など、確実に変化はしている。
仲間と小一時間プログラムの分かち合いなど。一緒に続けてきたベースがあるので、一からやらなくてよい安堵感。次へつなぐ。
中野に移動してミーティングと夕食。今日もまた夜の雨である。昼間晴れていても傘は必須。100円傘を全部処分してから、ちょっとだけ雨の日が楽しい。
仲間たちがプログラムにしている小手指へ行くには、職場からとなると西武新宿線を使って高田馬場から所沢まで行く。そして池袋線に乗り換えて二駅だ。以前の住まいは西武新宿線沿線だったが、急行にはあまり乗らなかった。大変混んでいるのである。さらに夕方のラッシュ時間だ。でもまあ埼京線や田園都市線に比べたらいい方かもしれない。しかしラッシュに弱いぼくとしては、ほんの少しの区間でも骨が折れる。
高田馬場から鷺ノ宮までがおそらく最も混んでいる区間だろう。周りの人たちの靴と靴の間に立っている感じがする。体が斜めになっていると、その靴によって倒れていくのである。他人の体によって支えられている。その人たちが流れて離れていくとまさに倒れてしまう。汗に覆われながら10分近く耐える。
鷺ノ宮、上石神井で、少し人が降りるので、つり革につかまることができる。すこしほっとするがあまり身動きができない。田無でようやく空間があいてくる。人間らしく立っていられる。花小金井、小平、久米川、と普通の電車にもどる。東村山のマンションが空室になっていたとしたら、このあたりをいつも通わなくてはならなかった。板橋があいたことに感謝する。
小手指に着いたらすごい雨である。ここのところ梅雨というより夕立のようだ。しばらくこんな感じであろう。
ゲストとして呼ばれて仲間三人と船堀へ。過去の話を中心に、一人20分程度体験談を話す。ここへよく行っていたのは地域の役割をしていたときだから、もう八年くらい経っているだろうか。それでも知っている仲間が四人いた。残念ながら古い仲間はもうほとんど出てきていないが、建物も会館の前の喫煙所も、昔のとおりである。
いくらか等身大で話ができるようになってきた気がするが、まだまだ気負いがある。司会だったからかなぁ。最近の自分のテーマは「気負いなく、正直に」である。仲間への配慮と両立するのが難しい。何も考えずただただ正直さだけを目指してぶちまけていたころのことを考えると、まるでぼくは子供のようだった。周りをたくさん傷つけてたんだよね。
できることを与えてもらったことに感謝しよう。留守番してグループを守ってくれた仲間にも感謝である。
西早稲田の焼肉店で友人と再会。小一時間過去の話や今の話をお互いにする。顔や形はほとんど変わっていない気がする。学生の頃というと1985〜1990だから、もう20年近い年月が流れている。どう考えても自分も相手も老けているはずなのだが、まったくそれを感じない。不思議なものだ。
ぼく自身の話はともかくとして、相手の話に集中してみる。チェロ、iPod、大学院、職場の人間関係、頑固な人々、家族。お互いに世界は広がっているのだ。成功して大立者になったわけではないが、地の底まで沈んだわけでもない。そこそこに生きて、そこそこに楽しんでいるのである。
遠慮なくいろんな話題に飛び移れるのがいい。偏見がない関係というのはよいと思う。肩書きとか出身はどうでもよいのだ。そういう話題も出た。一個の人間だから、それなりに生きているというそれだけである。
こういった関係をいままでおざなりにしてきたかもしれない。ちょっと反省。同窓会とか大切かも。それなりに歳を取ってきたということだろうか。