----前回同様、学校での作家批評文のパート2です----
高橋源一郎氏は日本ジャーナリスト専門学校で非常勤講師をしていたことがあるそうだ。もう20年以上前の話である。ぼくが学校に教職員として採用され働き始めたのは17年前の1991(平成3)年であるが、そのときには残念ながら、すでに高橋氏は講師を辞めていた。したがってぼくと高橋氏とは接点はないままであった。
ぼくが高橋作品に触れたのは学生のときである。理科系の専攻だったので文学関係からは縁遠かったのだが、文化人類学を専攻している友人から勧められて読んだのが、高橋源一郎「ジョンレノン対火星人」だった。
海のものとも山のものともわからぬ、名前も知らぬ怪しげな作家の小説を買って読むほど暇でもないしカネもないと、その友人には返事をした。するとある日彼は文庫版の「ジョンレノン対火星人」をぼくの前に持ってきて「いいから数ページだけでも読め、絶対面白いから」と熱心に言うのだった。
ぼくは学内でバンドサークルに加入し活動をしていたのだが、彼とはそのサークルで知り合ったのだった。彼は富山の出身で、ぼくは福岡の出身である。ともに田舎の県立高校出身であるということで何かとウマが合った。バンドでは彼はベース担当で、ちょっとエキセントリックなメンバーだった。親の仕送りでかつがつ生活している身分にもかかわらず、彼はスタインバーガー製の新品ベースギターを買って見せびらかしていた。そのギターはまるで銃のような小さく四角いボディだったので、今も記憶に残っている。ぼくがサークルの部長になったとき、彼は副部長に名乗り出てくれて一緒にサークルの運営をやった時期もあり、卒業の少し前には同じバンドでストーンズのコピーをやったりしたこともあった。
さて彼が強引に勧めてきた「ジョンレノン対火星人」を手に取り、彼のいる前で数ページ目を通した。しかしちっとも面白く思えない。しょっぱなの章立てからして「ポルノグラフィー」である。そこだけ見ると安っぽい浮ついた娯楽小説というイメージだろうか。そもそも人と一緒にいるところで本を読むことなんて不可能なのである。簡単なビジネス文書であっても、その場でちょっと目を通してくれと言われて即座に文章を吟味することはぼくは苦手なのである。たぶん編集者にはなれない脳構造だろう。仮に短時間であっても独りになって落ち着いて文章を読んでみて、初めてぼくは文意がわかるという気がするのである。
反応の悪いぼくに対して、彼はさらに「森田の性格や嗜好を考えたら、必ずぴったりはまると思うよ」と言った。ぼくがこれを読んだところで、決して彼に利得があるわけでもないし何の他意もないようなのだが、ただ単に読んで欲しいらしい。ぼくは彼の熱意に根負けし、日を改めて「ジョンレノン対火星人」を自分で買って読んだのだった。
もう20年も前の話なので、実はあらすじをよく覚えていない。しかし登場人物の名前は強く記憶に残っている。だって「パパゲーノ」だの「石野真子」だの「すばらしい日本の戦争」だの「ヘーゲルの大論理学」というような名前が続くのだ。何これ?というのが第一印象だった。
しかし、読んでいくにしたがって、どんどん引き込まれていくこの感じは何だろうか。数時間夢中で読みつづけ、あっという間に読了してしまった。笑いが止まらない箇所、深く考えてしまう箇所、手に汗握る箇所など満載だった。今まで味わったことのない読後感だ。これまでぼくが読んできたフィクションは、横溝正史、三島由紀夫、夏目漱石、J・D・サリンジャー、ヘルマン・ヘッセ、といった、横溝を除けば教科書に出てきそうな作品ばかりだった。しかし高橋源一郎作品に出会って初めて、小説ってフィクションなんだから何でもありなんだよね、っていう発見があったのである。ぼくにとっては大きな転換点だった。そう、文章で書けることには無限の広がりがあるということ。文芸の「芸」に触れたはじめての経験だったのである。
その後も高橋源一郎の作品は、断続的にではあるが、ほとんど読んだのではないかと思う。「優雅で感傷的な日本野球」や「虹の彼方へ」が初期の作品として有名だが、ごく最近も「官能小説家」や「性交と恋愛にまつわるいくつかの物語」などを読んだ。初めて高橋作品に触れてから二十年経ち、ぼくの経験や人生は進んできたが、当初感じたインパクトは少しも衰えていない。それどころか構成や表現が洗練されてますます「芸」に磨きがかかっているように感じられる。
日記や文学評論なども多数上梓されている。その中でも出てくる石神井や原宿での高橋氏の生活はやけに生々しい。どこからがフィクションなのかよくわからないこともたびたびだが、そんなことはかまわないのである。読者を楽しませてくれる文芸の「芸」を高橋源一郎氏は持っていると思う。
文 森田泰彦(専任講師)
四年間の役割が終わった。正確に言うと12/31までなのだが、みんなで集まって会議をやるのはこれが最後であった。最後の最後まで、気を抜けないことばかりが並んでいたが、ぼくの貫ける態度とぼくのできることというのは、ここまでなのだろうということだった。妥協の余地はあまりなかったが、それもやむなしということだろう。
入れ替わりで新しい風が吹き込まれている。最初はみんなやる気満々なのである。ぼくは最後までできたが、これはハイヤーパワーの力によるものであって、奇跡的だったかもしれない。四年間通しでできるほうがまれなようである。浜松のメンバーの健康回復を祈る。
-----勤めている学校で授業内で学生に書評を書かせているのですが、講師であるぼく自らも学生の立場に立つために、自分でも書いてみました。せっかくですのでその小文をWebでも公開します-----
=====タイトル長かったので修正しました=====
1984(昭和59)年、ぼくが大学受験に失敗して、やむなく高校付属の補習科予備校に通い始めたとき、現代国語の講師をしていた先生が、しょっぱなの授業でこの人の著作を取り上げたのだった。岸田秀。今はすでに70代の大学名誉教授である。この人の書くものはノンフィクションではあるが、作家ということでもない。しかし著作はたくさんある。ネットで調べてみると肩書きは「心理学者・精神分析学者・思想家・エッセイスト」とある。
予備校で先生が取り上げた岸田秀の著作は「ものぐさ精神分析」だった。この著作は岸田秀が世に知られるようになった代表作である。自身も「私の言いたいことはこの中に書いていることに尽きる」と表明している通り、彼の持論がすべて含まれていると思う。その後も次々と論文集などを発表しているが、内容は一貫している。角度や取り上げている素材が時代に沿って変化していくだけである。
岸田秀の思想は次のようなものである。「文化はすべて幻想である」「人間は本能の壊れた動物である」など。高校を卒業したばかりの十八歳のぼくは衝撃を受けた。予備校講師の配ったコピーはたった数枚で、文章のごく一部に過ぎなかったが、精神分析も文化人類学もまったく知識のないぼくにとっても、岸田秀の論理はとても明快で、分かりやすかった。そして衝撃的だった理由は、それまでぼくが教育されて持つようになった常識的な人間観が、根底からくつがえされたような感覚があったからだ。
代表著作である「ものぐさ精神分析」は、すでにメジャーの時流に乗っていたので文庫化されていて、あまり小遣いを持っていない受験浪人生のぼくでも書店で購入することができた。中公文庫刊だったと記憶している。福岡小倉のナガリ書店で買ったそれは、とても面白い本だった。講師が取り上げたコピーの箇所ももちろん出てきたし、当時のいろんな事件や社会構造が、岸田の論理にかかれば次々になぎ倒されていく感じが心地よかった。フィクション的読み物以外で、こんなにすらすら読めた書籍は初めてだった。
大学受験には今のセンター試験のような5科目の一次試験である「共通一次試験」があった。これは国公立受験者には当時必修で、理系受験をするにしても国語の試験は免除されなかった。また二次試験でも東大・京大は理系でも国語がある。現代国語の読解は常識的な文章理解ができればよいとされるが、やはり論理構造の複雑な文章が出題されることが多く、その点でもこの岸田秀の著作に慣れていたことは役に立ったと思う。
二度目の受験が終わって上京して、晴れて東京での一人暮らしが始まったのだが、岸田秀の精神分析やその考え方は、ずっとぼくの生き方に影響を与えてきたように思う。東京に来てからも数年の間は岸田秀の著作は読み漁っていた。別の論文を読むとまた新しい刺激や驚きが見つかったような気がするのだが、論理はいつも一貫しているという不思議さがあった。
岸田秀が教鞭をとっていたという和光大学の授業を一度受けてみたいと思っていたが、結局それは実行しないままであった。
「ものぐさ精神分析」の初版は1977(昭和52)年の1月に青土社から出版されている。およそ30年前だ。このころの世相はどうだったろう。オイルショックが終わり日中国交正常化、そして大平政権から福田政権に移ったあたりかもしれない。30年経った今、その息子の福田首相が政権を取っている。
精神分析の話は、古くて新しい問題だ。フロイトやユングのころから始まったカウンセリングは現代人にもニーズがある。岸田秀は自分を神経症だと告白している。苦しみから逃れるため、また自身で解決するために、いろんな論理を組み立ててきたのだろう。社会的事象の分析についても、ちょっと視点を変えるだけでいろんなことが説明できるようになる。岸田秀の著作が注目されたのは、その精神分析手法がただ単に精神神経科的な治療目的の分野にとどまらず、社会一般に鋭いメスを入れたからに他ならない。
論文の中には黒船到来や第二次世界大戦のことも出てくる。岸田本人が南洋での日本人軍人の戦死写真を見て、大きな衝撃を受けたこともかかれている。軍歌「海ゆかば」を聞くたびにその風景がよみがえり泣けてくると言っているが、そういう直接的な感覚がじかに伝わってくるのだ。
中でもぼくが共感したのは「現実我」と「幻想我」の比較の話だ。誰もが青年期には「こんなものは本当の自分ではなく、仮の姿だ」と思う。知識や想念は成熟してくるのに、現実の生活や経験はまだ子どもの延長だ。そしてそれが5年先、10年先は自分がどうなっているのかわからないという「不安」のおまけ付きである。精神不安定にならないわけがない。それで「幻想我」を組み立てて、今の「現実我」はそれに近づいていくための、途中経過であると自分を納得させる。そういう趣旨だったと思う。ここには近代哲学のアイデンティティの問題も含まれている。
バブルがはじけ多くのフリーターを生んだ現代の格差社会を岸田秀は予言していたのかもしれない。会社員や正社員であったとしても、不安に突き動かされ、現実から逃れようとする。これらのことは岸田秀の論理を持ってすればみな説明できるのである。
どんなに暇に見えようとも「ぼくのひまは、ぼくが必死に求めて手に入れたひまなのだ。だれにもそれを利用させない」という、ものぐさの骨頂を主張した小文もあった。そうした人間臭いところも岸田秀の魅力だろうと思う。
文・編集 森田泰彦(講師)
いやー、年末進行でいろいろ忙しくて、かなりのインターバルになってしまった。すみません。
今年四月に取得した投資用マンションの取得税を納入した。時価額の3%である。けっこう持ってかれるね。時価の評価額が実際の取引の額よりかなり低いから忍耐できるようなものの、年間利回り10%だったとしたら、三割も税金で引かれることになる。不労所得をうらやまれるところだが、国はさらにそれからおいしい汁を吸うのだ。今回の税金は正確に言うと都税だが、税収ってすごい金額になっているのだと思う。
でもこの税は売買をした今年限りのものだ。来年からは、1月1日付けの所有者に固定資産税がかかる。こちらはちょっとパーセントが下がるようだが、それでもウン万円持っていく税務の力。拒否したら脱税で逮捕だから、なんだかすごく暴力的な制度だなと感じる。
金の話が続くね。毎度はずれる年末ジャンボ宝くじ。万単位で買うのはもうやめたけど、今年は10枚くらいにしとくか。1億とは言いませんので、まあ100万円くらい当たってください。そしたら木曽路でしゃぶしゃぶくらいは食ってもバチは当たらんだろう。
1億きたらやはり不動産投資して不労年収800万円くらいになったら、悠々リタイアかね。人間堕落しそうだね。
新しいグループ発足の準備が進み、地域オフィス、全体オフィス、地区委員会などへの挨拶が終わり、ほぼ公開する段階になった。実際の発足は会場予約の関係で2008/01/09から、場所は杉並区の荻窪である。月末には地域誌でも詳細が広報されるだろう。
チラシは結局500枚で足りず、増刷して計1000枚になった。スタートメンバー6名。さてどう展開していくだろうか。
高田馬場で昼休みをうろついていたら、「からあげ専門店 天下鳥ます(てんかとります 03-3983-3066)」を発見した。からあげ弁当400円、単品、サイズ、トッピングなどいろいろ。ぼくはからあげフリークなので、どんな店に入ってもまずからあげ!というくらい、チェックが厳しいのである。
ここのからあげは十分な及第点だと思う。油の抜き方、衣の量、肉片の大きさ、ぼくの厳しい評価にほぼ合格点である。三回くらい続けて買いに行ってしまったが、続けるとうまいものも飽きてくる。またときどきチェックしよう。
来訪というよりは里帰りでもあるのだが、とにかく行ってきた。土曜は大分県の別府市でフォーラム。日曜は北九州市でセミナーと委員会。
別府では遊ぶヒマもなく、ただただ、役割を果たしたのみ。打ち合わせがあったり仲間とお茶飲んだり、東京で過ごす週末と質はそんなに変わらなかった。
北九州では実家に少し寄り、あとは西鉄バスの一日乗車券を使って、バスだけで移動。北九州や福岡は西鉄バス文化の街だから、電車を使わなくても縦横無尽に移動できる。セミナー会場は戸畑駅前で、ぼくが子どもの頃にできた若戸大橋という真っ赤な橋が目の前にかかっていて圧巻だった。
(若戸大橋は昭和30年代開通のようで、ぼくが生まれる前だったようです。ぼくが小学生のときに開通したのは「関門橋〜門司と下関を結ぶ有料橋」。)
バスは出身高校の横や裏の道を通り、旧電車道である到津なんかも通る。板櫃(いたびつ)川のほとりを走っていると、またあの恋のことを思い出すね。
夜、国道の旧10号線を走るバスでJR日豊本線の朽網(くさみ)駅へ。そしてそこから北九州の新空港へ到着。新空港利用は三月に続き二回目だ。
隙間なく行って、隙間なく帰ってきた。帰ったら帰ったで、また隙間のない毎日が始まる。ハイヤーパワーが敷いてくださる線路を走って、また日常生活に戻ろう。
翌年から新グループなので、この古巣杉並ではおそらく最後のバースデーミーティングである。たぶん、100人超でメンバーが集まっていたのではないかと思われる。ステップセミナー並みだ。ぼくというより、もう1人のメンバーが施設や病院で知り合った仲間が多かったと思われる。限られた時間と、限られた分かち合いだったが、基本を思い出し、良いミーティングだった。サービススポンサーに司会を頼み、やっていただいたのも、新鮮な試みだったと思う。テーマは「感謝」。
金曜のミーティングで必要な、「振る舞い」のケーキを仲間と予約に行く。ひと騒動も収まった、不二家。高円寺店は店じまいしたが、中野や高田馬場は営業を再開している。杉並での自分のバースデーはこれで最後になるだろう。少し感慨もあるが、前向きな進展なので、これはこれで良いと思う。
昼休みに食事へ行く。久々である。従業員二人合わせて、たぶん年齢140歳以上…。天ぷら定食600円は、てんやより安い。白木のカウンタに留まっていると、なんだか名士になった気分。
高田馬場から早稲田にかけての早稲田通りには、ラーメン屋などがほんとにたくさん、できてはつぶれているが、裏通りのここだけは、時代の流れと別にある感じ。お二人が元気な限り、続けて行かれるのであろう。健康と長寿を祈っています。
秋の入口であるこの季節は、ぼくが仲間の共同体につながった頃合である。一年のうちで一番苦手な季節なのかもしれない。
というわけでもうすぐバースデー月。あたらしいプロジェクトも挙行中だが、まずは目の前にあることを、ひとつひとつ丁寧に片付けていきたい。