しらふで新しく、いろんなことを経験してみて、そして自分を知る。こうしたほうがよいということがだんだんわかってくるのだ。すごいプログラムだねー。そしてここからが重要なのだが「こうしたほうがよい」ということと「こうしたい」ということが違うのである。頭ではわかるんだが……という、例の悩ましい葛藤だね。「止めなくてはならない」のが「やめたい」に変わらなくては扉が開かないのだ。これはあらゆる問題に当てはまるのである。仲間の手助けにより、自分のことを正直に書いて、そして話し、自分を変えていこうという努力をした。それでも自分を変えたくない、あるいは古い考えを使いたいという頑固な自我が立ちはだかったとき、さて、わたしはどうすればいいのか??
ここへきて、また底付きを体験する場所にやってきたと思う。理論ではなく、体験である。とてもそういう流れを感じている。とろ火になって鎮火したに見えても、まためらめらと行く手に炎が上がり、電車から見える景色もポストも真っ赤な色に映えている。まさに漱石の「それから」だ。1と7のステップがつながっていると仲間が言っていたのを遠く思い出す。かごぬけするうさぎを追って、わが身を濁流の中に落とし瀕死の重傷を負ってみて、やっと目を覚ますのか。自分の背丈がどれくらいあるのかを知らないと何もうまくはいかないし、配られたカードで満足はしないだろう。飲み込むのに困難な謙遜を、取り込まなくては前に進めないのだった。
水曜日は授業が目白押しな上、きょうは不規則労働がたくさん発生していた。わたしにしては珍しく、20分近くも時間外でサービス残業。こんなこと、絶対にしない人間だったのに……。ま、いろいろ考えたくないこととかも、たくさんあるので。
仕事とミーティングの間に、高円寺の1100円カットで散髪。スポーツ刈り以外を注文したのは、10年ぶりくらいか。最近こういうの多いね。
おそらく国内では外貨金利が最高水準であり、為替手数料も格安のソニー銀行に口座を開設した。無店舗なので、コストがかからないのであろう。通帳すらない。ネットでほとんどを済ませられる銀行である。決済には向かないが、預け入れはUFJや三井住友で無料でできるし、投信などもラインナップが揃っている。
ここへきて、身辺整理か。明日死んでもいいくらいの気持ちで、今日を生きていきたい。
福岡で仲間と分かち合い、小倉で感傷にひたりきってみる、そんな旅であった。
小倉では実家には向かわず、出身高校のそばを散策。折りから激しい雨。絶好の自己憐憫ムードである。
高校への通学路の踏み切り、生徒会で使っていた建物、補習科の予備校、デートで使った喫茶店。どれもみな、当時のままであった。もう20年以上経っているというのに!
振り返れば振り返るほどに、失われた時間のことに想いが募り、ますます哀愁が高まるのに、なぜにこういったことへ駆り立てられるのだろう。まあ、やりたいだけやってみて、もうそこには何もないということがわかっただけで、十分な収穫といえようか。
そして明日からまた、現実の生活に戻るのであった。
まあ、われわれの仲間内でやる合宿と交流会みたいなものである。福岡の志賀島のそばにある「海ノ中道」というところに行って参ります。心中複雑な想いもあるのだが、きのうホームグループで話したとおりである。ま、しかし、仲間は財産、行ったら楽しんでこよう。今年になって飛行機に乗るのは3月の山口以来二回目。
ご飯の炊き失敗を「ごっちん」と呼んでいたのは、小倉だけだろうか。今朝、お釜を開けてみたらそうなっていた。ただ単に「炊飯」スイッチを入れ忘れ、夜中じゅう保温動作をつづけていたらこうなったのである。一人暮らし20年の中でたぶん二回目。すぐ捨てて炊きなおしたが、たまたま仕事のない日だったのでよかったようなものの、ふだんだったら落ち込んだだろうなぁ。もちろん今もちょっと鬱だけど。
昨日、およそ七年ぶりにPHSの機種変更をした。東芝のDL-S300から、京セラのWX300Kへと変更である。初めてのカラー液晶。そして、アニメーション・画像も初めて使える。カメラつきも初めて。初めてづくし。世間並みからは大幅に遅れをとっている。
プロバイダのメールもこれでついに遠隔地で読めるようになってしまった。土日は地方に行っているからメールは読めません…という言い訳はもうできない。そして、もっと衝撃的なのは、電話を「折りたためるようになった」のである。すごいねー。ポケットに半分のサイズで入ってるよ。
ついでにWillcom定額プランにしたし、マルチパックを使うとADSLも安いので、PCプロバイダもメアドだけ残して、接続はWillcomに乗り換えるつもり。Willcomづくしだ。
あーなんかとっても後ろ向きな人生だけど、ぼくの戻りたい場所は、昭和56年とか昭和60年とか、そこらあたりのようである。TSUTAYAで
なんていうのを曲名見てみて、しびれてしまった。そして思わず借りてくる。まざまざとその頃のことを思い出すね。高校1年〜大学受験の頃までだ。
ぼくはその頃にどうも戻りたいみたい。戻ったからといって人生がやり直せるわけではないのだが、その想い出と妄想に浸っていたい……ということのようだ。
まあなんかそういうことよりも、今を生きればいいのだけど、なかなかそうもいかないのが、この後ろ向きの人生のようである。
あと、この中には収録されていないが、アルフィーの「シンデレラは眠れない」とか、松田聖子の「Rock'n Rouge」とか、そしてキョンキョンでは「私の16才」も、たまらんねぇ。
話題の流れから言って、なんかゾクの集まりみたいだけど、そんなことはない。きょうは井荻で生コントラックの運転手の人たちの労働組合の集会があったのである。まじめで必死に働いている人たちである。労働基準法の守られていない職場は多い。そしてこれらはなかなか改善されない。だから労働者は団結して闘う必要があるのだ。当然の権利を主張するだけなのに、それに対して不当な処遇を受ける。こうしたことは是正されてしかるべきだ。
外貨定期を始めてから、意識が為替相場にたびたび向かっている。たしかに利率もいいし楽しいのだが、銀行の手数料は高すぎることに気づく。四千ドル預けたら4000円の手数料を「わたし」から取り、それを円に戻すと、また「わたし」から4000円取るんだよ。この「わたし」から取るというところがいかんね。もうけている人たちから公平に、とか、国と業者とわたしと三等分とかならまだ納得行くのだが、「わたし」からだけ取るのである。
証券会社やネット銀行だと、この取り分がやたら安いことを後から知る。あー悔しい。でも経験してみてはじめてわかることなのであった。
とろ火もついに、完全鎮火か!? 生命力あふれていた2ヶ月間だったが、足元をよく見よう。
今日はスポンサーと二人でメッセージ活動だった。自分の生きる水準をぐぐっと12年前に戻すチャンスである。12年前どころか、20年くらい前の話をしまくっていた。これがよいのだ。鎮まってきた衝動がさらに鎮まって、ひたひたと地味に家に帰る。そしてまた明日につながる。
現在読んでいる本の中に出てきた言葉。厳しいね。でもそうかもしれん。そしてそれは、よいことであっても、だ。必要なものは与えられる。そして乗り越えられない試練は来ない。
変えていく勇気ということも頭に浮かぶ。果たして、自分はどうしたいのか。
この6月半ばの時期は、毎年のことながら、仕事の面では、年間でもっとも油の乗っている時期である。祝日もないし、特別な行事もない。ただひたすらに、つぎつぎに授業カリキュラムを進めていかなくてはならない。学生の皆さんの顔もだんだん見えてくる。授業を終えても授業を終えても、すぐ次が来る。でもだんだんそれに慣れてくる。仕事が詰まっていて当たり前だという感じ。仕事とミーティングの間のわずか数十分を新宿や池袋で過ごすのがやたら楽しい。
なぜかこの期間は、忙しいにもかかわらず、やりたいことがたくさん出てくるのである。忙しいから、かもしれない。そして、あまり無駄な体力も使えないので、無駄なことはしたくないという気持ちもある。したがって、必要なことだけを選別して、実行する。土日はあっという間に過ぎ、そしてまたすぐに月曜だ。あらゆることに可能性を感じる。制限がたくさんあってこそである。