きょうはこの話題を出すチャンスである。つーか、説得力を増すには、この屈折的な方法を…。今日はぼくはミーティングに出ていないのである。だからこそ言える。「みんな、ミーティングに出よう!!さもないと地獄に落ちるぞ」
たとえば金のない人が「世の中、金じゃないよ」と言っても説得力がない。そいつはサワーグレイプだ。金持ちが「世の中、金じゃない」と言うと説得力が増す。それと同じだ。ほんとか??
実は明日もミーティングに出られない可能性が濃厚。金曜はホームグループであるのにもかかわらず、三週連続欠席が余儀なくされそうである。これは大きな事件である。なぜかというと、ぼくは、特に何かない限り「基本的にホームグループのミーティングにはすべて出よう」と決めているからである。ここニ・三年はそれでも月にニ・三回は出られなくなっている。「基本的に…」という考えを持っていてもである。その考えが最初からない人ならなおさらだ。ぼくは恐らく 1994年の夏ぐらいから2000年の半ばくらいまでに、ホームグループのミーティングはおそらく4,5回しか休んでいないと思う。年に一回休むかどうか…というレベルですな。その自分が三週連続金曜を休むなんて、天地がひっくり返ったのかと思うくらいの出来事だ。
よく目にする光景として、
「毎日毎日ずっと欠かさずやっていた人が、突如来なくなる」
というのがある。よくあるのだ。するとたいてい沈没している。死んでいることすらある。いや、ほんと。ポキンと木の枝が折れるように倒れるのである。端から見ているとやはりそのgo stopは明らかで「やりすぎ」か「やらなすぎ」の二つなのである。中間がない。だから、適度にサボり、適度に続けて、そして五年も十年もそのいい加減さでやっている人というのは、ある意味天才的なのではなかろうか。いや、まあ、皮肉なんすけどね(笑)。
ぼくはそれでも「信仰は質より量」と思っているのだ。サリンジャーの「フラニーとゾーイー」にも巡礼の話が出てくる。何度も何度も習慣のように祈り、習慣として黙想を繰り返していると、やがてそれが本物になるのだと思う。だからこそ続けていこうと思える。そう信じられないとしたならば、続けてやっていこうなどとは思わないではないか。
雨が降った。いつも靴がずぶぬれになるのは、防水でない靴を履いているからだ、と気がついた。ので、靴を買った。なんかとっても間抜け。ずっと気がつかないでいた。
後期になって一回目の授業である。二ヶ月あくともうなんか力がないね。ちゃんと展開できるのだろうか。でもできなかったことなどないのだから、きっとできるのだろう。実体のない「おばけ」に会うたびにこう思う。
びしっと一日休めたのは久しぶり。休日のめぐり合わせに感謝。先週も実は三連休ではあったが、委員会・セミナー・セミナーと続いたので、こうやってポツンと祝日が入るとありがたい。今日は久しぶりに秋葉原に行って、夜はいつものミーティング。有閑の日という感じであった。
秋葉原には行ったものの、あの物欲の日々にはもう戻れない(戻らない)感触がする。ハードウェアにほとんど興味がわかない。「激安!」とかいう札がついてるメモリやHDDなどがあってもどうしたことか、食指をそそられない。それどころか、そういえばうちにあるアレとアレはまだ捨ててなかったなぁ、使ってないし捨てるか…とかそんなことを考えながらパーツ街を歩いていた。
結局買ってきたのは雑誌「日経Linux」のみ。ならば東中野でも事足りていた。一度家に帰って昼寝。起き出して、神楽坂。仲間とご飯食べてまた帰宅。もうすぐ23:00。
ああ、木曜以来、4日ぶりのミーティング。これですわ、求めていたものは。サービス一辺倒もそれなりに妙味はあるが、ベースはやはりミーティングである… と。そこを検討したいところ。整理できてるようで整理できていない自分に気づく。なんかガタガタと揺さぶられる今日この頃である。大人になりたいです。
「わっはっはー、4300万。油塗って、もう遠慮せんで…」
これが噂の…って、違うか。
午前10時から午後8時までかかりました。ずっと黙っているというのはしんどいことでもあります。
これで今年のサービス活動の大きなヤマが終わったという感じです。あとまあ、反省会も控えていますが、無事終わりました。みなさまの支えがあってのことです。
そう、土日は総攻撃というか、翼賛体制でサービス一辺倒になりそうなのだが、きょうなんてもうほんとに組合と仕事だけって感じで、平凡の一言に尽きた。打ち合わせにつぐ打ち合わせ。話につぐ話。それでも新宿を21:00に出ることができて、ふだんより微妙に帰宅が早い。たまっていた洗濯をしてしまった。
土曜(20日)の夜に、中野に帰ってきまふ。
明日から栃木である。金曜夜から泊まりこみ。土曜が一日中フォーラムなのである。宇都宮。
またしてもstep8であった。傷つけた人々の表をいったいいつになったら作るのか>自分。いったい作る気はあるのか。ないのか。ないなら、ないと言ってみよ。
作る気があるなら三日以内に作るように…。
人が人をさばくということは恐ろしいことだ。その結果死罪になったりさえする。目には目を…なんていう格言すらあるぞ。
必死にやってるときは人をさばきたくなる方向に進み、自分が怠惰の限りを尽くしているときはさばかれる恐怖に戦慄している。なんとかならんかなあ、この神経症的病状。ありのままでいたいっす。
たびたびの住所変更や電話番号を知らせてないことが続き、まんまと行方をくらますことに成功したつもりになっていたのだが、職場がこの13年変わっていない。ついに名簿が職場付けで送付されてきた。考えてみれば、卒業してから住所を五度も変えている。それでも追ってくる同窓会のパワーおそろしや。呑み会は出るつもりはないが、しらふでやるらしい総会には行ってみようかと思う。まだちょっと先の話だが。
卒業した学科の名前がまた変わった。もともと原子力の学科なのだが「システム量子学科」そして今回の変更で「システム創成学科」。は?って感じである。ますますわけがわからない。原子力ってイメージ悪いんだろうか。高度成長期には花形の分野だったはずなのにね。一度は原発で働いたわたしとしては、なんとも複雑な想い。今はもう何にも関係ないんだけど。
今週は火・水・木・金と働けば終わる。しかも金曜はそのまま栃木にとんづらだ。土曜フォーラム・日曜理事会と続く。倒れるかもねー。なんか甘味の欲しい今日この頃。
「自分は謙虚だと思っている」という最大の高慢の話があったが、自分もなんか似たような感覚が最近ある。
足の裏に脳みそがある、とか、ミーティングは質より量、とか、それは自分に都合がいいからそういう話をしたがるだけのことなのである。自分が毎日出てるからね。出られる状況にしている努力も確かにしてるのだが、そこは周りからはあまり見えない(見ようとしない)ようで、「恵まれてるね…」なんていうことをよく言われて、そうじゃなくって!!と叫びたくなるのを抑えるのに苦労する。結局何を捨てて、何を優先してるかだけの違いなのであって、誰かが、誰かに比べて大幅に恵まれた環境にあるなんてことは、すくなくとも自分の周りではあまり見たことがない。良好な環境やブルジョワな地位なども、その人がそれなりの努力をして、しかもそれを維持しているからこそ、そこにあるという気がする。自分もそうなのだ、とここで主張すると、結局最初の「わたしは努力をしているんですよ」という高慢に戻ってきてしまうのであった。じゃー、どう言えばいいんすか…。
わたしは毎日ミーティングに出ているので、他の仲間に尋ねられたときも「とにかくミーティングに出るしかないですね」と言ってしまったりして、大変な反発を食らうこともしばしばなのであった。だって調子がよくない最大の原因はミーティングに出てないからなのは端から見てると明らかで、それを指摘しないで他の柔らかい表現でごまかそうとすると、ますます彼はミーティングに出ようとしない、そしてますます状態が悪くなったり、おかしなことを考えていたりするのだった。それでやっぱりぼくは「とにかくミーティングに出なさい」としか言えず、そしていつしか彼は相談に来なくなるのでした。
こんな自分はやっぱりやさしくないんでしょうね。しかしよいことが一つだけあります。たくさんミーティングに出ている仲間ばかりが周りにいつもいるようになります。必然的な流れかもしれません。
今日は王子の北とぴあで城北地区のセミナーがあり、それを聞きに行った。他の人たちの体験というものは本当に貴重で、どうしてこんなに重なる部分が多いのか…と驚いてしまう。
夕方終わって、上板橋へ行った。セミナーの会場にいた人たちがここにもたくさん来ていた。小一時間過ごして、今日もおしまい。あっという間の連休でした。
● ami16 [高慢・・・おもしろかったです。]