原子力発電所で外部からの電源が遮断された今回のようなケースのときに、自家発電するためのディーゼル発電機がある。そしてもしこれもトラブルに巻き込まれたらにっちもさっちもいかなくなるので、念のためディーゼル発電機は2台ある。おそらく日本の原発はすべてその仕様になっていると思われる。福島第一もそのようだった。しかし最悪の事態が起こり、そのディーゼル発電機のための燃料タンクが津波で冠水して使えなくなってしまったのだ。悪いことが重なるのである。多重防護思想で設計されているにもかかわらず、多重に事故が重なるとまったく無力だ。しかも水素爆発で建屋の屋根が吹き飛んでしまった。
外部電源が接続されれば、ようやく事態は収束に向かう。冷やして閉じ込め、除染すれば、平時に戻るはずである。いつかぼくにも出番が来るかもしれない。
21年前に卒業論文を指導してもらった関村直人教授が、連日NHKのニュースに出演している。原子力発電所の技術専門家として福島原発の事故について、解説をしているのである。先生の専門は、原子炉金属材料の経年劣化などである。ぼくの卒論はイオン照射損傷だった。
先生には先週研究室を訪ねて、会ったばかりである。たぶんNHKに、原発事故直後から詰めっぱなしなのではないかと思われる。いやあお疲れ様です。こういうときは大学の研究者はたくさん駆り出されるのだなあと思う。
大地震には副都心線の西早稲田駅構内で遭遇した。電車を降りた直後だったので改札へのエスカレータに乗っていたのだが、動いているエスカレータでもはっきりわかる揺れだった。少し収まってから地上へ。中野で仲間と会う予定だったが双方動けないのでキャンセル。自分は池袋へ歩くことに。
夜池袋で仲間と分かち合い。いつも20〜30人来る会場が、今日は数名。そのあと自動車で来ていた仲間に自宅のそばまで送ってもらう。大変な渋滞の上、徒歩で川越街道を帰って行く人たち。映画の場面のようだった。
自宅に帰ってみたらガスの安全装置が働いていたので手動復旧。少し物が床に落ちていた程度で大して被害はなし。東北は大変だと言う。余震が続いている。皆さんも気をつけて。
支えていただいた皆様のおかげで光明が見えてきました。関係各方面への調整が済み次第、内容は後日ここに書きます。
今日は東京大学2次試験の前期日程合格者発表の日である。本郷キャンパスではたいへんな人出。三四郎池上方の弓道場と図書館の間に合格者掲示板が出る。
昔と違って不合格者も後期日程で挽回と再挑戦ができる。一人でもたくさんの合格者が出て欲しい。
応援部がパフォーマンスをしていた。たいていの応援歌は神宮観戦のおかげで歌える。副将の山田さんがぼくと同じ小倉高校出身である。きょうは初めて話しかけて名刺交換までさせてもらった。また神宮でお会いしましょう。
やるべきことがずっと折り重なっていたがなんとか大物はひと段落。まだ他の人たちを待たせている事項がいくつかある。自分のためにやるべきことも少し棚上げになっていた。まずは部屋の掃除。放送大学の履修科目も昨日が登録締切日で午後になって滑り込みで登録と変更を完了。やっぱりこの「勉強したい」という意欲を大切にしなくてはならない。追われていると逆転するのだ。もっとも学問環境に恵まれていた学生時代はやる気が起こらず、今になってあれもやりたいこれもやりたいと沸々と意欲が高まるようなものである。英語への情熱をとくに維持したいと思う。
冬はもうすぐ終わりだろうか。厳冬を過ぎればあとは春しか来ない。もうひと雪と言ったところだろうか。
きょうから一般入試の東京大学2次試験が行なわれている。今週から本郷三丁目の地下鉄駅構内に大手予備校河合塾の広告が大々的に出され、受験生を応援している。大学構内にも下見に来る受験生と母が散見された。地方から泊りがけで来ているのだろう。なぜか「母」と子なのであった。ぼくの時は現・浪2回とも一人で来たよ。お母さんはご心配なのでしょう。
そういうわけで大学構内に二日間入れない。図書館が使えないのが大きい。駒場も試験場になっていて使えない。今日と明日は自宅学習である。
先日受験したことを書いた大学院研究生の試験結果は一次で不合格。残念。Webでも結果が公表されているが、三倍以上の倍率だったようだ。年度内ではあと一つ受ける予定。三月までの駆け込みで願書を出せる大学や大学院もたくさんあるようで、電車の中吊り広告などでたくさん願書受付中の文字が躍っている。でも私立はやはり学費が高くて手を出せない。あまりレベルを下げたくないというのも正直なところ。下げるとずるずる妥協しそうでこわい。人生を賭けるのだから、納得の上で進めたい。
今週は卒業した研究室の教授にも会いに行った。まだご健在で定年退職直前の様子だった。原子力業界の話や同窓生らのその後についても聞く。指導教官の中には残念ながら亡くなった方もいるようだった。小一時間相談に乗ってもらって、研究室をあとにする。門はたくさんあるのかもしれない。卒業後、学科の改変が進み、工学部(大学)も工学系研究科(大学院)も複雑になっているようだ。やはり英語や物理は必須といえる。試験対策が当面の課題である。
初めて六本木ヒルズに足を踏み入れる。すごい摩天楼。skyscraperだ。空を削るような建物がそびえ立つ。そして外を見ると、ライトアップされた東京タワーが赤く光っている。ここは都会の真ん中だ。田舎者の自分は肩身が狭い。
ミーティングに出てみる。仲間に誘われたのだ。英語のミーティングなので、全部英語だ。書籍読み合わせも英語、司会者の説明も英語、自己紹介も英語、スピーカーもフェローもみんな英語である。アメリカに来たときみたい。正確には「行った」ときなのだが、まさに「来た」っていう感じである。ああやはり世界の共通言語は英語なのだった。
地下鉄ですごすごと帰る。霞ヶ関で丸の内線に乗り換え、池袋で東上線に乗る。大山あたりでやっと日本に帰ってきた感じ。ハーバードもケンブリッジもあまりに遠し…。
同名のお菓子がある。木、金、土と二泊三日で小倉の実家に帰省。
実家に長いこと置いてあった大学時代の教科書類をダンボール詰めして、東京に送った。二十数年ぶりに東京に戻ってくる。物理や数学の本類である。裳華房、朝倉書店、岩波書店。そして自分の受けた定期試験のプリント類や卒業論文もある。卒業論文を読んでみると、まったくの別世界だった。自分が書いたものだとはとても思えない。でも確かにぼくが1989〜1990に書いたものなのだ。試験問題と計算用紙も見てみる。びっしりと計算式が書かれている。微分記号や数値計算の跡。脳味噌をフル稼働させていた。いま使っている脳の箇所と明らかに違うのだと思う。
今回は父や姉ともよく話をした。そしていつもならまったりと過ごす滞在期間が、とても短くあっという間という感じがした。もう出発日か、という印象。
往復には日本航空のマイルを使った。マイルを現金換算すると、だいたい2倍半くらいの価値があるように思える。もう一回分くらい国内なら往復できるくらい貯まっている。
父からは一年くらいのんびりしたらどうかと言われる。それもそうだろうか。自分の足元を良く見て人生を考えたい。
東京大学大学院情報学環教育部研究生の一次試験を受験。筆記試験2時間。往年の大学入試を思い出させる。東大の記述試験はA3タテのでっかいマス目か大ぶり罫線の解答用紙なのだった。学部の一般入試は、選択科目の部分をハサミで三角形に切る。今回はとくにそれはなかったが、選択した問題の記号を書き込む欄があった。
感触は…。今回も渋いところだった。自信を持って書いた解答も、直後に確認してみたら国名や出版社名、著者名など基本的な部分を間違っていることに気づく。減点だろうなあ。まあそう甘くはないのだった。
来週一次の発表があり、二次試験へと進む。足を切られたらまた別の選択肢を探すことになろう。
ちなみに研究生というのは正課生ではないので、正式な大学院生ではない。だから研究生は、所属している正式な学部や大学院があり、あるいは社会人だったりしながら、教育部で研究するという主旨なのだ。でもやっぱり受かりたいところ。
評議会や地域のローカル集会が連続する。ぼくの役どころはなんとかやりおおせたと思う。そしてグループに戻り分かち合い。スポンシーたちに支えられている上に、尊敬する先行く仲間がずらっと目白押しに訪問してくれる。ミーティングで並んでいた仲間のソーバーは一列だけで合計80年くらいあったかもしれない。
井荻で皆で夕食の時間。岐路は迫ってくる。全力は尽くす。人生の並木道。
● ヒロシ [非常に危険な状況のなか、職務にあたられている方々に感謝します。 ネットにも流言飛語が飛び交ってるね うがい薬飲んだら..]
● SLASH [ご無事を確認して安心しました。 他の仲間の無事も祈っています。]