明日の夜から京都入り。パパと水入らずである。父は72、この息子は39。今回の主目的は、われわれがこれから入るお墓というか納骨場所を手配することである。西本願寺なんてすげぇ金取られるんじゃねぇの??と素人考えでは思うのだけれど、輪をかけて倹約家なわが父が自ら提案してくるくらいだから、何か名案があるのに違いない。ていうか、いつきたるかわからぬ納骨の日なんかは実はどうでもいいことであって、何か口実をつけて、けっこう歳のいったこのパパと息子が、まったりと時間をかけて一緒に過ごすことが重要なのである。縁起でもない事だけど、だってもう次があるかどうか、保証はないのだから。
「8:15に京都駅に集合。な?」と言われてしまった。午前でっか。ちょっと早杉。だから、明日の夜のうちに行かなくてはならなくなってしまった。倹約家なパパは、なんと北九州から船でくるらしい。二等で雑魚寝は、あんまり70代の人のやることじゃないよ……と言ってもどうせ聞かないので、言ってないが。健康な姿で日曜朝に会えることを祈ります。
期末試験週・そして制作実習の大詰めとなってきた。やってもやっても終わらぬ仕事。しかし、かならず終わる日が来るのである。
怠惰な自分だが、ワーカホリックになると、スイッチが一挙に逆転する。危ないねー。
久しぶりに渋谷の大向に。こんな都心のど真ん中で、こんなに少ない人数のミーティング。はじめて来た仲間が、途中で帰ってしまったのが、とても気になりました。
牛丼サンボにて昼食。(゜д゜)ウマー。お皿注文。殺伐とした雰囲気が落ち着く。
OverTopという、パーツショップ。アキバデビューの頃、よく、足しげく通ったものだ。Pentium対応のSocket7マザーボードを初めて買ったのもこのお店である。そのOverTopがついに店じまいである。10年近くお世話になった。ま、本体のメッセサンオーは営業を続けるし、OverTop2は生き残るらしいから深刻なお別れではないのだが、店舗がなくなることだけでも少しさびしい。
しかしながら、最近の自分はといえば、パーツやソフトはあまり買う気がしない。コンピュータ講師をしているというのに、いまだにSocket370のPC使い続けてるしね。
アキバは、電器と部品の街→PCとアニメの街→今はエロとモバイルの街になりつつあるようだ。ま、それは主観か。
以前、秋葉原を歩いていたときに、たまたまAMDのキャンペーンにぶつかり、写真に掲載されてしまったことがある。
少しずつ、どう振舞えばいいのかとか、ここで何を言えばいいのかとか、自然に気がつくようになってきた。それには、この一年少々の経験と、対話したメンバーとのやりとり、苦楽を味わったことが、非常に大きく作用しているように思う。
そして、言ったことは、確実に実行していかなくてはいけないと、思うようになってきた。信頼されているという感じもつかめてきた。そのあたりがとてもうれしい。
最近、文化的欲求などが高まっているかも。各種欲求、同時拡大か??
鷲田小彌太やレヴィストロースなどを読む。ついでに渡部昇一とか、微積分の雑学とか。図書館に入りびたりであった。借りてきてしまうと「読書しなければ」の観念が、生活を侵食してしまうので、その場で読んで本棚に返した。それが一番である。
地理や歴史も、久しぶりにめくってみると面白い。とくに自分は狭小な視野に固定しやすいタイプなので、まったく自分の専門に関係ないものを探して回ると、とくに刺激が高まるようである。北海道に支庁があんなにたくさんあるなんて知らなかったよ。サハリンに鉄道が走っているなんてことも、知らなかったです。
しつこく続ける。
ちなみに、昨夜のタイトル「選択本願念仏集」は、法然上人のほうの著書であるので、念のため。
親鸞聖人のほうの思想は「善人なほもて往生を遂ぐ。いはんや悪人をや」というのが有名だね。悪人正機説である。しかしながらこれは悪事を勧める造悪論ではない。善人は、善行をしようという計らいがあるから、自力の高慢に陥りやすいということである。たいてい善いことをしているときというのは、調子に乗りやすい。それどころか、善いことをしていない人を裁いたり、善いことをするように命令したりする始末。それがおかしいと親鸞聖人は申されていたようだ。
われわれの為そうとする善悪など、地上の芥子粒のような範囲の、ちっぽけな善悪である。それに比べると「阿弥陀仏の本願」は大きな慈悲である。阿弥陀仏は、われわれ人間が考えることすらできないほど、大きなふところをもった、一切衆生を救ってくれる存在である。
3月に、父親と京都の(西)本願寺に行くことになった。今から少し楽しみなのである。
同名のタイトルで、今も元気なおじさんロッカー・忌野清志郎のエッセイがあった。あるいは、「日々の泡」という小説もある。こちらは、たしか肺気腫か何かの恋人の余生と、ともに生きるような話だった。
ともかく、日々の泡立ち。あぶく銭を稼いでいるのではないけれども、欲望と、名声や名誉、そして、いろいろな損得勘定を天秤にかけながら、わたしは生きているのである。敢えてやはりここでは「人々は…」などとは言うまい。自分のことで精一杯という自覚を持って生きたい。
吉本隆明の「今を生きる親鸞」を図書館から借りて、一週間くらい少しずつ読んでいる。煩悩具足である。何もできない庶民であっても、念仏だけで救われるというのは、すばらしい思想である。ところで、念仏は、週に何回くらいしたらよいのでしょうか。多ければ多いほどいいのでしょうか。それとも量より質ですか。軌道修正ですか。念仏できない、のどの病気の人は救われないのでしょうか。仲間と喫茶店に行くことで念仏代わりにしている人は?? それとも定期的に念仏すればいいですか。汲めども尽きぬ、疑問の数々。
よいことを自力でしようとしたら「自力作善」という高慢になる。結局みんな阿弥陀仏まかせという感じがする。でもそれは、寝て待っていればよいというわけではないようだ。念仏は必要なようである。
熱中時代に出ていた、あのお姉さんだ。ずいぶんとお姉さんだと思っていたが、実はわたしと7歳しか違わないらしい。7歳「も」か。(ここらへんわたしの感覚はおかしいらしいので、あえて正当化すまい。よく「キヨシさんストライクゾーン広すぎ」と言われる。)。
というのは、昨年末に「Active」という写真集が出ていたらしいのだ。これもまた奇遇なことに芸能生活30周年と銘打っている。ナンノに続き、あなたもかよ。Amazonとかで調べてみると「大胆グラマラスショット」なんていうキャッチコピーすら帯に踊っているし。あー、悩まし杉。
朝、目を覚まし、電車に乗って仕事に行く。すぐに授業時間。教室に行って、学生のみなさんとともに数時間。昼食、そして、また仕事。終わると労働組合。飲みに行く人たちと別れ、仲間とのミーティングへ。帰宅。だいたい21:00〜22:00。ネット少しやり、急ぎの仕事を少々片付け、眠るまで。
ずっとこの繰り返しだったし、これからもそうであろう。
最近は仕事のない日も平日にあるし、週に一回くらいはミーティングに行かない日もある。しかし、その分はサービスで埋められているから、大差はない。とにかくやっぱり、たくさんの人たちに支えられているという感じがする。
飛び上がったようなことは、何もする必要はないのだった。自然と与えられるものだ。
今年最終。ちょっとした星のめぐり合わせで、司会をさせてもらうことになった。伝統12。読み合わせで30分。分かち合い1時間。あまり長話せず、とにかく、みんなにしゃべってもらおうと努力。
ふだんあまり来ない人とかも、たくさん来ていた。年末進行である。
西武線の定期券も今日で期限切れ。六ヶ月定期で磁気券なので、かなり疲弊している。よく働いてもらった。
今は休暇期間なので、比較的よく動くからJRの定期券も一ヶ月買っている。これが一般の人とは逆なところなのだろうが、仕事が始まるまではこのJRの定期だけで過ごすつもり。