同名のタイトルで、今も元気なおじさんロッカー・忌野清志郎のエッセイがあった。あるいは、「日々の泡」という小説もある。こちらは、たしか肺気腫か何かの恋人の余生と、ともに生きるような話だった。
ともかく、日々の泡立ち。あぶく銭を稼いでいるのではないけれども、欲望と、名声や名誉、そして、いろいろな損得勘定を天秤にかけながら、わたしは生きているのである。敢えてやはりここでは「人々は…」などとは言うまい。自分のことで精一杯という自覚を持って生きたい。
吉本隆明の「今を生きる親鸞」を図書館から借りて、一週間くらい少しずつ読んでいる。煩悩具足である。何もできない庶民であっても、念仏だけで救われるというのは、すばらしい思想である。ところで、念仏は、週に何回くらいしたらよいのでしょうか。多ければ多いほどいいのでしょうか。それとも量より質ですか。軌道修正ですか。念仏できない、のどの病気の人は救われないのでしょうか。仲間と喫茶店に行くことで念仏代わりにしている人は?? それとも定期的に念仏すればいいですか。汲めども尽きぬ、疑問の数々。
よいことを自力でしようとしたら「自力作善」という高慢になる。結局みんな阿弥陀仏まかせという感じがする。でもそれは、寝て待っていればよいというわけではないようだ。念仏は必要なようである。