というわけでなかなか治らないので、肛門科で手術となった。先生からいきなり「切りますよ、ちょっと痛いですよ」と言われ、あっという間に切除されてしまった。しかも麻酔なし! 痛い! Ouch! Oops!
そしてすぐ帰ればよかったものを、委員会とホームグループに出席。帰ってみたら悪化していて死にそうになったが、一晩収めてなんとか持ち直した。
あとはよくなる一方だという医師の話。たぶんもう外来に来なくて大丈夫と言われてしまった。本当? 信じたい。痛みがだんだん引いていっている気もする。
22年前に一度手術をしたのだが、定期的に再燃している。今回立て続けの夜なべ作業と冷え込みで少し悪化。再手術もやむなしと病院に行ったが、まずは薬で治しましょうと提案され、持続的痛みに苦しみながら過ごす。長時間歩けないので、学業は一週間中断。仲間内の実行委員会は妻の運転でレンタカー出動。ステップセミナーのスピーカーも杖をついて這うようにして行った。あとホームグループにだけはなんとか出席。小康状態になることを祈る。
研究室セミナーでときどき学術論文の輪講の順番がめぐってくる。過去の先行研究を何か選び、10名ほどの研究室の大学院生の皆さんに紹介するということだ。要するに内容をレビューして、自分なりのまとめを提示し、意見をいうというミッションである。
紹介する論文は当然のことながら英文である。翻訳するだけでも結構大変なのに、内容を把握しておかなくてはならない。あまりいい加減に済ますこともできず、結局全訳することとなる。しかし紹介発表のときに全訳を読んでいてはいくら時間がかかるかわからない。全訳を把握した上で要点だけスマートに話し、図を示して解釈し、最後にまとめるという手順である。
前回はアメリカの断層の話、今回は島弧の火山フロントの地形発達の話をレビューした。準備に膨大な時間がかかる。それがひょっとしたらこの講座の狙いなのかもしれない。研究には大量の時間と労力がかかるのである。
東大応援部のビッグイベントに今年も行った。五年連続参加だろうか。淡青はスクールカラーである。このブログのバックグランドカラーもそれにあやかっている。ライトブルー。受験票もこの色だったような気がした。公式封筒もそう。
どこの大学も応援部のリーダーやチアはスターだ。その代わり血のにじむような練習があるようである。根性と鉄の意志がなくては続かないのだろう。気合が必要。人生も気合。やるときはやる。でもふだんはわれわれには手抜きも必要である。
古いセントラルオフィスにはステップ21という看板がかかっていた。理由はよくわからない。21世紀を目前としていたからか。政治やトランプでもよく21という数字が使われていた。自分のソーバーも21年となった。ステップはゆっくりとしかやっていないが、でもやろう、である。
今年は一年、ほとんど来年の横浜のイベントに注力してきた。いまもそうである。一緒にプログラム委員会で活動している仲間に司会をしていただいた。もり・もりコンビ。自分のステージはさらに続いていくだろう。できることとできないことを見分けていきたい。できることは山ほどある。できないことには助けを求める。それでうまくいくようだ。
招かれて、スピーカーさせてもらう。ステップや伝統や概念など。みんな自分が経験した内容には食いつきがいいし、経験のないことにはうつらうつらである。当然か。みんなと経験を分かち合いたい。姫島の昭和の宿に宿泊。
埼玉県寄居町にある川の博物館へ行った。荒川についての展示など秩父や長瀞の歴史にも触れられている。自分の研究フィールドは一山越えたところにある上野村や藤岡市の神流川なので、荒川の河川発達史も大変参考になる。
実物の1:1000スケールの源流から河口までの荒川の模型がなかなかよかった。等高線が立体的に示されているし、屋外なので雨水が自然に流れるようになっている。土地のスケールがよくわかり、東京の沖積部や中流部の蛇行の様子も直感的につかめる。このあたりは洪水の危険性が大きいといったようなこともよくわかる。ちなみに自分が今住んでいる墨田区や、数年前住んでいた志村は非常に洪水ハザードに弱い地域であるようだ。だから土地や家賃が安いのかもしれない。
わたしの宇宙観の妄想を一つ。
大きさのスケールというのは、われわれ人間が認識できるオーダーがたまたま人体の1.5mくらいということで、これを標準と思い込んでいる。しかしながら科学が発展して、極微の世界から天文スケールまで、さまざまなオーダーが認識対象となった。原子レベルのオングストロームの単位から、光が何年もかかって到達するくらいの距離が想像できる。
しかしそれより大きい世界、それより小さい世界はどうなっているのだろうか。こんなことを中学生くらいのときから考えるようになった。わたしたちの生命体がたまたま1.5mくらいだからといって、それは相対的なものに過ぎない。これを基準にしているから大小の観念が閉塞的になっているような気がしてならないのである。
わたしたちの生命スケールがもしオングストロームの単位だったら、もっと小さい単位が容易に認識できるだろう。しかしそうなると逆に1.5m程度の人体がとてつもない天文学的大きさに見えるのではないか。またわたしたちの生命スケールが膨張しつつあるこの宇宙のスケールだったらどうだろう。地球など極微の世界である。そして全宇宙のさらに外側に広がっている時空を簡単に認識できるのかもしれない。相対論など直感的に把握できる能力を持っていたかもしれない。
そのような妄想の中で思考実験を繰り返していたあるときのこと、原子は核の周りを電子がぐるぐる軌道を描いて回っているという説明に遭遇したとき、恒星と惑星の関係と同じではないかと思った。そして一気に思考が展開するのだが、この極微の世界と全宇宙が同一のもので、その大きさのスケールは循環しているのではないかという仮説にたどりついたのである。
まあ、気が狂っていると思って聞いていただけたらいいのだが、この目の前に死ぬほどたくさんある原子核の一つ一つが、われわれを包み込んでいる全宇宙そのものであるという考えである。たくさんあるが一つでしかない。逆も成り立ち、膨張している全宇宙は目の前にある原子核そのものである。
いま「原子核」とか「全宇宙」を、われわれが認識できる最も小さいものや最も大きいもののたとえとしてタームを使用しているが、それはニュートリノやヒッグス粒子でもいい。観測技術が進めばもっと小さいものが認識できるかもしれない。宇宙もまた同様である。
この中学生くらいのときからの考えは、いまも自分としては捨てられないでいる。反証に出会っていないからだ。かといって正しいという証明もない。なんとなくだがそう思っているに過ぎない。しかし堂々とそれを信じていると公表したら病院に連れて行かれるかもしれない。そんな感じであまり口に出すのもはばかられてきたのだが、いろいろな宇宙論の書籍を読んでいると、そんなに特殊な考え方でもない気がしてきたのである。
こういう妄想は自分だけかと思っていたのだが、10年くらい前に「ウロボロスの蛇」というモデルがあることを知った。ググれば簡単に探せるから見てほしい。わたしの考えていた妄想がぴったり合う。これにはほんとうに驚いた。妄想ではないかもしれない。
9/16~9/19まで巡検に出かけた。そのあと9/20,21も地理学会と続き、ようやく本日東京に帰ってきた。
往復ともに高速バスを使った。すごく安いからである。ゆきは新宿→長野を2,500円、さらにJR信越本線を乗り継ぎ集合地点の高田駅に到着。帰りは富山→東京を3,500円。どちらも新興の高速バスベンチャー会社で、長野ゆきはWillerトラベル、富山からはJamJamExpressである。安かろう悪かろうでもない。バスは新しくきれいだし、4列シートも決して圧迫感はなかった。
巡検は直江津から潟町砂丘の調査から始めて、まずは高田平野を流れる関川を調査。そして日本海沿岸沿いに西へと進み、糸魚川市から姫川に入った。姫川は糸魚川静岡構造線を流れる川で、土砂供給が多い。西日本の古い蛇紋岩や安山岩、東日本の新しい地質が混合されて河原を作っている。
白馬のほうまで川沿いに昇っていった。山崩れや堰き止め湖もある。東西日本の境界線で調査するのが楽しい。県境や市境のマニアが多い理由がすこしだけ体感的にわかった気がする。
姫川の底質調査がほぼ終わったら、今度は青海川、親不知、境川と巡検が進む。ここから富山県に入った。黒部川で少し山中に入り、高位段丘を調査した。天気も穏やかで、露頭で連続サンプリングをしてから研究室の数名で昼食。さらに傾斜が急なことで知られる常願寺川、そして公害で有名な神通川を調査して終了となった。
富山大学での地理学会は、他の研究者の発表を聞くのに専念した。人文地理関係の発表比重が多く、自然地理も災害がテーマだったり文献からの気候復元が主だったりして、地球惑星科学関係では人文的要素の強い学術大会だと思う。
富山は浄土真宗の布教が盛んだったようで、魚津、入善、富山には寺院が多いようだった。市街地に東西の本願寺(大谷派と本願寺派)の別院が並んでいたのが印象的。最終日は市内電車の一日乗車券(620円)を使って、地鉄電車やバス、路面電車を満喫した。高山本線もすこし乗車。もう少し時間と体力があったら氷見線や立山への山岳鉄道にも乗りたかったが、それは次回にゆずろう。
日本のインターネットの一般的な普及は、平成になってからであるとわたしは認識している。一般ユーザーが広くインターネットを利用し始めたのはWindows95が発売された平成7年くらいからだが、それ以前にもWindows3.1ではWinsock.dllを用いたTCP/IP通信が利用できたし、MacPPPというものもあった。NCSAのMosaicやNetscapeを用いたwwwが登場する前はGUIインターフェイスのアプリケーションはほとんどなかったため、インターネットとはいってもhttpではないTelnet, FTP, Mailなどのテキストが中心のものだった。インターネット以外にも、すでにオンラインシステムとして気軽に使えるものパソコン通信というものがあった。NIFTY serveやNECのPC-VANなどが商業サービスを開始していた。パソコン通信のゲートウェイとしてインターネットサービスが行われていたこともあった。平成になったばかりの頃は、このパソコン通信の通信速度が少しずつ速くなって1200bpsから2400bpsになったあたりであり、どのくらいのスピードかというと全角20字1行分が1秒で表示されるくらいであり、さっと1行が流れると「速い」と感じられる時代だった。
これからの10年で例えばMicrosoftのWindowsが95,98,Millenium(Me),2000,XP…と進化して、ハードウェアも廉価になっていった。その背景には次のような事情がある。MS-DOSの頃にはNEC-PC9800シリーズのDOS、富士通FMシリーズのDOS、海外のIBM PC/AT互換機用のDOS(DOS/V)と、ハードウェア仕様ごとにOSが用意されていた。バイナリデータがNEC用、富士通用、DOS/V用といったようにハードウェアごとに異なっていたので、ハードウェアメーカー間の価格競争、開発競争があまり先鋭化しなかったという印象がある。しかしPC/AT互換機のマザーボードなどを生産する、台湾のパーツメーカー(例えばASUSTek, GIGABYTE, DFIなど)が多く参入してきて、Windows95が売れ始めると事情は大きく変化した。Windowsさえ動いてしまえば同じソフトウェアが使えるため、ハードウェアがNECや富士通のものではなくてもよいということになったのである。したがってPC市場をNECや富士通が独占できなくなり、IBM PC/AT互換機がWindows市場を制覇したといってもよい。その結果、価格競争が熾烈となり、一般ユーザーが10万円くらいでデスクトップコンピュータを買えるようになったのである。
このようにコンピュータが低価格化していった一方で、通信インフラも平成に入ってから大きく進歩を遂げていく。わたしの知る限り、一般ユーザーのコンピュータ通信のスタートは、音声カプラを用いた電話回線による音響通信だった。モデムが出す特定の周波数の音響でデータをやり取りするものである。生の音声周波数と発音時間はアナログなので、データの誤差を訂正する必要があり、雑音を拾うというような問題も多く抱えてのスタートだったと思う。
その後ダイヤルアップという技術が一世を風靡した。通信を始めるときのプロトコルの確立はモデムによるという点では同じであるが、通信が始まってからは、回線上はアナログのデータが行き交うが、送信側受信側のコンピュータではデータをデジタルのまま処理できるという点で長足の進歩だった。
次に出てくるのがデータ送受信のスピードの問題である。テキストのみのやり取りであれば、先述のように2400bpsで1行のテキストを大体1秒以内で送れるので、人間が文字を読んでいくスピードより速い。そういう意味ではテキスト通信は2400bpsでも十分である。しかしパソコン通信でバイナリデータを添付してやり取りするようになると、スピードはもっと速くする必要があった。10kByte, 20kByteの画像のJPEGデータを送りたいとなると9600bpsや14400bpsが必要になり、OMRONなどのモデムメーカーが開発を進め、技術的に追いつくことができた。さらにMosaicやNetscapeでGUIインターフェイスのwwwを快適にブラウズしたいとなるともっと速い通信速度が求められ、28800bpsという当時の「高速モデム」による通信が実現した。Windows98が発売された頃には28800bpsや33600bps (V.34)が全盛で、これらの通信速度の高速モデムが飛ぶように売れた。アナログ回線にモデムをつなぎ、ダイヤルアップで電話回線を独占するナローバンドタイプの通信では、このスピードあたりが安定して通信のできる限界であったといえる。少しあとになって56000bps (K56Flex/X2) も出現したことを付け加えておく。
このようにダイヤルアップで音声通話用のナローバンドを使うインターネット接続では、家庭に一本しかない電話回線をコンピュータ通信やインターネットで長時間独占してしまうと、固定電話がその間ずっと話し中になってしまうという問題が生じた。当時は携帯電話がこれから普及していく途上の時代だったので、家庭の電話利用というとまずは固定電話だった。したがってこの問題は深刻だった。
またアナログ通信のスピードは雑音によるエラー訂正の問題で頭打ちになってしまっていた。そんなときに、これら二つの問題を一挙に解決するというインフラ商品がNTTから発表された。それがISDN回線である。デジタルであるため通信速度が向上し、一気に64000bps(64kbps)となった。ISDN契約は二回線を束ねているため、コンピュータで一回線を使用中でも、残りのもう一回線で音声電話ができる。あるいは二回線両方をコンピュータ通信で使えば128000bps(なんと128kbps!) という高速度で通信ができるというものだった。当初はアナログからデジタルに切り替えると固定電話の番号が変更されるという問題もあったが、技術的に解決されて番号を変えずにインフラだけ変更することができるようになった(INSネット64の同番移行)。
このように社会的な通信インフラが整うにつれて、インターネット接続を分配して商業サービスを行う通信業者、いわゆるISP(Internet Service Providerたんに「プロバイダ」と呼ぶ場合もある)の業界内競争が熾烈になっていった。当初はアスキー(AIX)やベッコウアメ、RIMnetなどごく少数の従量制プロバイダしかなかったが、次々に低価格のプロバイダが現われ定額制となっていった。中でも年間10000円で使い放題というscan-netは衝撃的だった。
ダイヤルアップが主流だった頃には、通信を行うには電話料金(従量制)とプロバイダ料金の両方が課金された。電話料金は同一市内のプロバイダにダイヤルアップすれば最安の3分10円でかけられたが、それでも従量課金であるため長時間利用すると利用料金はどんどん加算されていった。さらにこのプロバイダの料金が別に課金されるため、ユーザーには経済的負担が大きかった。そのためプロバイダの過当競争はユーザーにとっては好都合だったといえる。
電話料金を安く抑えるためのサービスも存在していた。NTTでは深夜時間帯23:00~翌朝8:00のダイヤルアップを定額とするサービス「テレホーダイ」がヘビーユーザーの需要に応えていた。ただ、このサービスを契約してしまうと睡眠不足で仕事に差し支えるという事例も多かった。ISDN回線が出始めてからは、ついに常時接続サービスである定額のフレッツISDN(当初は「IP接続サービス・仮称」という名前)がサービスを開始した。
ISDNではモデムに代わってターミナルアダプタ(TA)が必要だった。モデムではダイヤルアップの際、アナログとデジタルの変調復調をリレーするための通信プロトコル確立のために発信から数10秒を要するが、TAによるダイヤルアップだとデジタルでの接続のためTCP/IPの確立が非常に速く快適であるという点もすぐれていた。
デジタル回線のISDNがよいことづくめで圧倒的シェアを握ると思われたが、2000年くらいからADSL技術が開発され実用化したため、アナログ回線がその地位を巻き返すこととなった。ADSLは従来のメタル回線を使って常時接続でデータ通信を行う技術である。メタル回線が利用する周波数のうち、最も低い領域のナローバンドを従来どおり音声通話に用いる。そして中間のブロードバンド周波数をUpstreamに、高周波のブロードバンド領域をDownstreamに用いる。通常は受信が送信に比べてよりデータフラックスが多いため、Down領域を広めに取って高速度にして、Up領域を少なめに取って中間速度とする。このような設計のために周波数帯の広さが上りと下りで非対称となるため、Asymmetric(非対称)なDSLということでADSLという名称となっている。
ADSLの強みは、ISDNやダイヤルアップに比べて圧倒的に高速度であり、ダイヤルアップのように回線を独占しないばかりか常時接続でしかも定額であるという点である。一般的なプロバイダではADSLのDownstream回線速度は10Mbpsのオーダーである。しかしながらADSLもよいことづくしではなく欠点もある。ADSLの通信速度は基地局からの経路距離に依存するため、汎地域的な標準的品質を保証できないという点が最大の難点である。このためADSLの品質はベストエフォート方式と呼ばれる。しかし基地局から2~3kmというような悪条件でも512kbps~1Mbps程度でありISDN二回線分の128kbpsの4~8倍の高速度である。一般的には3Mbps~12Mbpsが主流で、24Mbpsや40Mbpsを謳って契約者を集めているプロバイダも多い。最も古いタイプのアナログ電話回線で利用できるという点も普及に拍車をかけた。費用対効果という点でISDNよりもこのADSLに軍配が上がったと言える。NTTの固定電話でADSLを利用するには、電話回線にスプリッタという分岐部品をつけて音声電話とPCデータを分岐し、プロバイダから実質無料で提供されるADSLモデムをつけっぱなしにするだけでよい。ダイヤルアップのように従量制の通話料がかからず、プロバイダに月々2000円程度を支払うだけでインターネット接続が使い放題となる。
そのほかの固定回線による通信インフラとしては、若干高価格ではあるがADSLのあとに光通信FTTHが普及することとなった。ケーブルTVの回線を利用した有線接続も、山間部などでは根強い支持がある。
FTTHは光回線であるため従来のメタル回線とは別に新しく光ケーブルを引き、家庭などの敷地の端末まで伝送回路を引き込まなくてはならない。このような点で新規に開設するには手間のかかるインフラである。しかしADSLと異なりデータの減衰が少なく、基地局から比較的遠いところであってもデータ通信が可能という点が強みである。さらにユーザーから好まれる決定的な長所は、通信速度が圧倒的に速く、現在の技術では最も速い100Mbps~1Gbpsを実現しているという点である。
最近の通信インフラはこれらの固定電話などの回線を利用した技術とはまた別の次元で開発が進んでいる。それは携帯電話の回線とともに技術革新の進む、Wi-Fiをはじめとした無線接続である。ダイヤルアップから光ファイバまでの固定回線は、有線LANをいかに公衆回線上で利用するかといった技術だった。しかし、携帯電話があまねく普及した状況の中での無線インターネット接続は、固定電話回線の物質的、空間的制約を受ける必要がない通信インフラ、通信環境であるといえる。
ダイヤルアップが全盛だった過去にも、PHSや携帯電話をモデム代わりにしてノートパソコンなどで外出先からダイヤルアップ接続するケースがあった。特にPHSはもともと固定電話のデジタルコードレス子機として開発されたハードウェアであり、その設計仕様上ダイヤルアップに利用しやすい長所をたくさん備えている。DDIポケット(ウィルコムの前身)が売りにしていたのは、移動しながら外出先から通信が可能なAir EDGE(エアーエッジ)という商品であった。当時携帯電話の電波が地下階で届くところが少なかったこともあり、PHSは営団・都営地下鉄構内でも電波が届くということがセールスポイントだった。あれから18年くらいたった今でも、東京メトロの駅構内には「PHS/この付近で使えます」という四角い青色のロゴマークが貼られているところがある。
しかしPHSの通信速度(64kbps/PIAFS2.1対応)に限界があるし、コストの高さはなかなか解決できないでいた。そのうちシェアの多い携帯電話キャリアの他社からスマートフォンが発売され普及するようになり、通信にWi-Fiを使ってパケット定額で利用できるようになると、従来ノートパソコンとダイヤルアップ機器がなければできなかったことがスマートフォン一つでできるようになった。そしてWi-Fiが定額になるような料金体系を提示することにより、携帯電話のキャリア各社はユーザーのニーズを見事につかんだといえる。PHSは技術的にはアドバンテージをたくさん持っていながら、開発や料金体系の提示の機敏さが不足していたことで、他社キャリアに敗北したといえるだろう。
このような経過を経て、現在の日本のインターネット環境がある。固定電話と携帯電話の普及率(契約台数ベース)は、2000年ごろを境に、携帯電話のほうが多くなった。固定電話のほうが普及していた時代では価格の面から言ってもISDNやADSLに分があったと思われるが、近頃では携帯電話だけしか所持しておらず、固定電話は契約していないという人がとくに若い人たちの中にはたくさんいる。NTTの固定電話について、2005年に施設設置負担金(いわゆる電話加入権)が72,000円から37,800円に改定され、加入権売買の行われていた中で資産価値が暴落し、いまでは買取業者が買取1500円、販売5000円程度で行っているが、固定電話のメリットはいまやほとんどない。
このような現在の環境でインターネットを利用しようとしたら、もっとも手軽で新規コストがかからない選択は、間違いなくスマートフォンによるブラウズやメールであろう。コンピュータも固定電話も所持していない人たちに言わせれば「ほかに何があるの?」とでも真顔で言われかねない雰囲気である。
固定電話の基本料 (NTT)+プロバイダ利用料(ADSL)で4000~5000円程度、その一方で携帯電話基本料+Wi-Fiパケット通信定額料でやはり4000~5000円程度となり金額的に大差がないとなったときに、固定電話にこだわる理由はすでに希薄になっている。高いお金を払って電話加入権を手に入れ維持してきた経過があると、これを利用しないともったいないような気分にも駆られるものである。しかしはじめからそれがないとしたら、どうしても必要な携帯電話、それにプラスしてどこでもいつでもメールやブラウズが簡単にできる便利な端末、そのための通信インフラを安く契約しよう、となるのは必然的である。
概観してみたようにわずか30年程度のこの日本国内の状況だけでも、猫の目のようにくるくると通信インフラの主流が変化している。したがって未来を類推すると、現在がこうだからといって次の主流がこうだと断言できるものではない。むしろ人々の選択は非常にフレキシブルで複雑多様であって、安ければ・便利なら飛びつくといったような一次元の短絡的なものではないことだけは確かなようである。比較的豊かな時代とされている日本の1990年代以降であっても、このような変化の連続であったのだから、海外で人口が多くしかも発展途上にあるインドネシア、マレーシア、タイ、ミャンマーといった国々では、今後通信インフラに関して多くの金額とモノが動き、いろいろな意味での激動が予測される。
通信インフラがあらゆる面で整いつつある日本にしても、依然としてデジタルディバイド(格差)は存在する。まったくインターネットとは無縁でメールを利用できない人たちがまだまだ多く存在する。大学院のある授業クラスの中で、スマートフォンを所持していない学生は20数名中わたし一人であった。いわゆるガラケー所持者は身の回りにもたくさんいるし、わたしは1998年からPHSを利用しているが、まだスマートフォンを持つつもりはない。携帯電話に関しては平均的に言って、ほぼ国民全員一人一台という水準になったのではないだろうか。情報格差は経済的発展とともに縮まっていくのか広がっていくのか、携帯電話だけを見ていると縮まるようにも思えるが、インターネットではまだまだ議論や開発の余地があるように思う。
(これはわたしが書いた大学院でのレポートを一部改変したものです、著作権は放棄していません)