_ きょうは亡き祖母の誕生日。1902(明治35)年生まれだから、もし生きていれば120歳。でもそんなに人間は長く生きられない。だからちょうどいいのかもしれない。死は転生とも言えると思うが、自分の意識が消え去った後、一体どこのフェイズに再生するのだろうか。物質の粒子は四散してしまっても、どこからともなく波動が再生されるようなイメージだと思うのだが、これは東洋的すぎる発想だろうか。
まだ私は56歳だが、人生百年時代が迫っているらしい。ほんとうにそんなに長く生きられるのだろうか。しかし身の回りの70代の人たちがみなさんとても元気なので、ひょっとしたら自分も元気でいられるのかもしれないと思ってしまう。少し腰は痛くなってくるし老眼も進んでいるけど、野球の試合二連戦ぐらいは神宮で見ることができているし、駅から徒歩25分くらいなら余裕で歩けるよ。
本を読む気力が少しずつ弱体化しているのが気になるところ。でも慶應通信は続けられているし、四半期ごとに微々たる量だが単位を取って積み重ねている。悲願の「文学部」はいつか卒業できるのだろうか。ロシア文学の単位くらいはしっかり取っておきたい。フランス文学や科学哲学の単位が取れたのは自信につながっている。
仕事をもっとしていったほうがいいのかもしれないが、軟弱な労働者でしかないんだよね。ワーク・ライフバランスを取っていきたいが、収入の伴わない仕事ばかりしている感じ。まだまだ人生は長く続くかもしれない。でも仏教的見地から言うと、生きる命の長さははかないのだ。