関東甲信越のサービス執行会議。先月風邪で欠席したのが痛かったが、きょうは万全で出席。たくさんの案件がどう流れるか心配でもあったが、自分の思惑などどこ吹く風で、見事にみんな処理されていった。仲間の中に働く力に、今日も驚愕の思い。
場所を移動して、さらに役割の打ち合わせ。今年は自分がチェアパーソン。すこし力が入りすぎている気もしたが、二時間で終わらせるという外的条件が助けてくれて、これも無事終わり。何か決めるというよりも、やはり話し合うことそれ自体が大切なことだと思える。
きょうは委員会三連発であった。世田谷に移動。新代田で道に迷う。線路沿いを行けばよいという話だったのに、途中で道がなくなるんだもん(笑)。結局、朝会った仲間に電話して待ち合わせてもらい、連れて行ってもらう。まるで方向音痴のダメダメ君。
委員会は地区によって特色がある。人が違うんだから当たり前なんだけど、比較するとけっこう面白い。担当地区なんだから、他人事じゃないんだけどね。
サービスはここまででおしまい。締めはミーティング。間が空くと帰っちゃうことも多いんだが、きょうは隙間無く移動。ちょっと遅刻したので、耳だけ。
でも最近、考えてみたら、あまりじっくり話をしていないことが続いている。そういう表面的なことであっても、魂が錆びるのは進行性だから、油断はならない。
大根買って帰宅。なかなか大根を買う時間が無かった。ビタミン確保。しあわせです。
自宅の蛍光灯をぶら下げている引っ掛けシーリングの端子が、すこし特殊な形状をしている。普通は長方形の長辺の側に一対の差込口があり、差し込んで少し回すとカチッと固定されるようになっているものが大半のようだ。しかしうちの蛍光灯の差込口は、その形状の穴もあるのだが、中央に普通の家庭用100Vのコンセントがついている。だから何らかの方法でぶら下げることさえできれば、引っ掛けシーリング対応でない照明器具も付けられる。
しかしながら、肝心の引っ掛けシーリングそのものがぐらぐらしている。入居時に確認したときに、シーリングアダプターを固定しているねじが二つのうち一つしか差し込まれていなかった。パソコン用のねじがたくさんあるので代わりに入れようと思ったが、微妙にサイズが合わず、インチねじもミリねじもダメ。やむなく放置していたのだった(およそ一年半。危ないね)。
片方のねじを見本に持っていき、中野の島忠家具で探した。ちょっと大きめのホームセンターなのでねじ専用のコーナーがある。ピッチや規格が三系統くらいあるようで、m3.5というのがぴったり当てはまると判明。どうしてわかったかというと、売り場にちゃんとゲージ見本があって、差して回るかどうかの「試し穴」まで用意されているのだ。たくさん穴が並んでいて、もって来たねじがぴったりはまるかどうかわかるのである。すごいねー。
規格どおりのものを買って帰り、家で取り付けてみたら見事に固定できた。すごくうれしい。業者に頼んだとしたら工賃や部品代をいろいろ払わなくてはならなかっただろう。中野までの交通費とねじ代(140円)で解決! 金額の問題だけでなく、自分でできたというのがとてもうれしいのである。入居時に台所の水道の蛇口を付け替えたときもうれしかった。賃貸ではないので、実はマンションの中はその気になればいくらでも改造してよいのだ。ま、ただあまりやり過ぎないようにしよう。
一気にラストスパートである。数学は統計や検定の項目などの復習に至る。分散とか標準偏差とかだ。「偏差値」というのも平均値を50に、標準偏差を10にしたときの偏りだったのだと思い出す。5%や1%の検定、有意水準とか、こういう世界から離れていると魔術の言葉のようだ。
英会話講座は水曜午前。受験に関係なく行き続ける。ぼくにとって会話はほんとに初級レベルだ。slowly and fast。いつかハーバード大学に留学しよう。こんな冗談でも、言い続けていると実現するかもしれないから、人生は無限の可能性があると思う。考え続けていることは本当に実現するからね。これまでの17年は少なくともそうだったから。
イメージトレーニングとマインドコントロールも極まれりといったところだろうか。
本日は雇用保険の失業認定日。池袋のハローワークへ行き、求職活動をしたという報告文書を提出し、失業認定を受ける。ものすごい人数である。どんどん失業者が集まってきて、受付が滞るとあっという間に失業者の順番待ち行列ができる。不況と解雇が日常的な風景なのだろう。
ぼくは昨年四月末に認定されてから、今のところおよそ270日を経過している。330日の満了まであと二ヶ月なので、認定はあと二回の見通しである。3月下旬に最後の認定になる予定だが、いつまでも失業者というわけにはいかない。大学か大学院に正規学生として入学するか、就業するか訓練などを受けるか、いずれにしても四月からの新年度は新しい生活を始めたいところである。人生はいかなる方向に向くのだろうか。われわれは神様の計画の上で、転がっていくのである。