ミーティングのテーマがなんと「雨」。はじめてかも。きょうは家にいたこともあって、あの洪水の中神楽坂まで行くのは気持ちも砕けそうであった。定期券も期限が切れてもう20日。雷さえ鳴ってたし、出てすぐに靴はずぶぬれ。
昼間はほとんど寝て暮らしていた。午前中に鍋屋横丁まで歯医者へ行ったきり。歯医者はしかし毎回痛い。きょうも血だらけになった。女性の技工師さんが美しいので、なんとか行く意欲が維持できているものの、なかなかしんどい。歯石取りもあと二箇所。今週はもう一回行く。ぱふぱふ。
今年は秋に一回きり、九州に行くことにしている。理事会主催のフォーラムが10月にあるからである。そういえば去年も8月から11月にかけて、日本中走り回っていた気がする。新潟・名張・近江・郡山。今年はいくたびもの栃木の往復と、その10月の福岡程度で済みそう。福岡は割り引きチケットが豊富で助かる。
8/2よりADSLの業者を変え、asahi-netに一本化した。これまで各社で試してみたが、結局料金と速度に左右される。今回契約した「超割ADSL」(なんか飛行機のチケットみたい)は、最高速度12Mbpsでモデムレンタル料永久無料、月額1990円である。ISDNの常時接続に月3000円以上支払ってTAを自分で買って用意しなければならなかった頃とは隔世の感がある。それで当時は64Kbps(0.06Mbps)だったんだもんね。
組合の正式文書に上部団体執行委員長印をもらう必要などがあり、バイクで九段下の事務所へ出かけたりする。職場や組合の関係には、バイクや縁談など個人的なことは隠しているのだが、平日昼間の路上駐輪は交通違反切符を切られる可能性があるので敷地内に駐めざるを得ない。先日は組合の人にCBXを降りるところを見られてしまった。ま、別に実害はないのでいいのだが、いろいろ聞かれると面倒だなぁ……とか。
真夏のうだるような暑さの中をすっ飛ばしているとなかなか爽快なのだが、アスファルトの密林の中で渋滞すると暑くて地獄である。東京都内を半日も走り回っていると顔も真っ黒になるしね。
グループのフェローシップ企画で、例年通り今年もそうめん大会が行なわれた。薬味を切ったりてんぷらを揚げたり、今年は麺をゆでる鉄火場のような部署で仲間とやってみた。教会の調理場を借りてのことなのだが、大鍋でゆでたそうめんはなかなかよかった。
みんなで協力して何かをおこなう……ということが重要なのである。人数や売り上げももちろん大切な要素だが、赤字にならなければいいという程度であって、むしろたくさんの仲間とまたこれがきっかけでつながり、ふだん行きそびれていた会場にまた行ってみようか……という気持ちになれれば、それだけでも十分である。
この夏場に入って、にわかに働き過ぎて、参っております。声も嗄れ、気力もあとわずか。日曜までのスケジュールを何とかこなして、来週につなぎたいと考えております。
今週に入ってからレポートを2本仕上げて提出、そして今日は学部科目の定期試験を受けた。東海発電所への現場見学ツアーにも参加した。今週は本当に原子力工学科にいたときのように専門一色の一週間だった。
現役学生の20代のころのように「やっつけ」ではない。研究生は単位取得はできないので、やっつけをやっても何の意味もないのである。すべて自分の学業の消化のため、実力をつけるために純粋に勉強しているという感じだ。わからない問題が出たら終わってから必死に考える。調べてわからなければ聞いてみる。演習問題を探して解く。なんだか試験が終わってからのほうが好きなように勉強できるので楽しいと思う。
レポートを提出した後で書いたことにたくさん間違いがあったことに気づく。このブログもよく後から書き直すことがある。でもレポートは先生に出したものなので、いちいち修正提出などできない。そのときの自分の実際の理解力と注意力をそのまま評価してもらうしかない。
今週は水曜日に東海村と大洗に行き、原子力の現場を実際に見学できたのが大きかった。施設ではたくさんの労働者が働いている。自分が長らく離れていた世界だ。なぜまたこうして自分が戻ってきているのか、不思議な力を感じる。
まだすべてのレポートが終わったわけではない。あと中旬までに2本残っている。来週また頑張って行こう。
所属団体の日本40周年記念集会実行委員会に参加。企画方針骨子やアンケート調査などが議題。開催までまだ二年以上あるが、まだ会場選定前だし、決まっていないことが多い。少しもめる場面もあり。
ぼくは過去の周年行事にかかわってきたが、今回はあまり口出ししない方針。周知方法で意見を求められたので、そのときだけ発言。
帰りに理事と少し話。この20年あまりの歴史を考える。ぼくの経験もその中の一部であると認識。ぼくにできる役目は多分ぼくに固有のことと思われる。誰もわざわざ衝突や対抗を望んでいるわけではない。ぼくにしてもそうだ。まわりはそのように見ていないかもしれないが…。
イベントを契機に皆が一つの目標のもとにまとまれる効果を期待している。
_ たいていのことは他の誰かが代わりにやってくれても何の支障もないし、むしろ自分がやらないと達成できないと考えることの方が高慢極まりないことである。幾たびもの経験でだんだんとそれがわかってきたのだけれど、自分の出番か他の人の出番か、判断がつかないこともある。他の人がやろうとしないとつい手を挙げてしまう。手を挙げるのをどのくらい待つのか。30秒か、3日だろうか、3年待つのだろうか。よくわからなくなる。待っていると他の人が手を挙げることがある。誰も手を挙げないまま、制度自体を改善する方向に進む時もある。ますますよくわからなくなる。
しかし、誰かを助けなければならないとき、チャンスがきたらそれを逃すわけにはいかない。自分の目の前でそれが起きたらためらう暇はない。拾うしかない。腰をかがめる、床に手をつく、泥がはねてくる。そこで思ったことを言うしかない。すべてをうまくまとめるなんて到底できることではない。苦しんでいる人に手を差し伸べる。助けを求められたときになりふり構わずそれにこたえる。たとえば20年近くやってきた人を助けられるのは、25年とか30年やってきた自分たちだけかもしれない。それはむしろ光栄な役割である。声がかかったらやるしかない。
あとは汚れ役。みみっちい話をしに行かなければならない役目。叱られることが仕事の役割。クレーム引き受け株式会社というのが昔あった。ずうずうしい話を強硬にねじ込まなければならない役割。話しにくい話を誰かがしなくては状況は改善しない。とくに日本人、都会人は見て見ぬふりをする。見ないふりばかり毎日していると本当に見えなくなる。見えたものをそのまま口に出すと、子供みたいに思われたり「しっ」なんて言われる。あれは裸の王様だったか。逆に抑える側の役割もある。全体のガバナンスのため、内部統制のために、冷酷に見せしめをしなくてはならないこともある。社会とはなんと厳しいことか。
自分にしかかぶれない泥があるなら、それを進んで引き受けよう。いろんなことを経験してきて、それができるようになったからそれがそこにあるのだと思う。