ここでやはり復活せねば…と思った。忙しいのは、評議員をやってるからなのではない。たしかに「苛酷な」役割ではあるけど、わたしが思い通りに時間をマネージメントできていないのは、おもに「仕事」と「組合」なのである。過去の自分のようにそれらを「取るに足らぬ」と断言することはもうできない。相応の責任が伴っていることであり、それなりの報酬も受けているからである。そしてここが重要なことなのだが、報酬は金銭だけとは限らない。そしてそれらはわたしの都合に関係なくやってくる。当然だ。わたし個人がやっているわけではなく、組織としてやっていることだからだ。だからわたしが「合わせる」ことになる。だからわたしがほかのものを「犠牲にする」ことになる。それで成り立っているのだから、当然なのだ。犠牲にしない人もいる。それはそれで、他人のことだから知らない。関知しないのだ。
それにひきかえ地区委員の役割も評議員の役割も、自分のプログラムを犠牲にしてまでのことは要求されなかったのである。個人の活動なので、自分がやるかやらないかなのだ。他のことを犠牲にするなんていう余地はそこにはない。それ自体が最優先事項だからだ。与え続けていかなくては、われわれは死を迎える。サービス活動はけっして免除されることはない。どんな小さな形をとるとしても、目的は一つだからである。
おそらく理事になってもそうだと思われる。三つのレガシーはきちんと三角形に形どられているのだ。それぞれが互いの足を引っ張ることはなさそうだし、これまでもそうだったみたい。忙しくて、できない、ということはない。忙しいのでできないということを言ってみたいだけなのだ。忙しくないのだ。忙しいと言えば忙しくもなるが、寝る間も惜しんでという程でもない。たしかに「30分も時間があれば速攻で寝る」ということはあっても、時間は作れるのである。自由な時間が一日に2時間(22:00〜24:00)しかなくても、まるまる一日なにも無い日でも、自分のできる仕事の量はたいして変わらない。すくなくとも自分の場合はそうみたい。何かの原因で「忙しい」と言わざるを得ないようなときというのは、バランスが崩れているだけみたいである。
そしてやはり言えることは、このプログラムは土台が必要だということ。その土台とは定期的にミーティングに出るということのようだ。「定期的」という言葉は実に自分の都合の良いように使えるので注意したほうがよいようだ。他の人たちがそれを使っているとき、どのように都合良く使っているかが、ほんとに良くわかる。土台が無いとベースがなくなっていく。もともとおかしいわけだから、さらにおかしくなる。そして自分の間違いに気づいて元に戻るという段取りなのである。しのごの言わずに「毎日出る」。それでいいみたい。出れなくてもいいが、毎日出るのだ。すごい矛盾。でもこれでわたしは続いてきた。
この二週あまり死にそうであった。プログラムをなめているとこういう目に合うようだ。理解者はいつも周りにいたのである。そして正当な評価もいつも降り注いでいた。集会・委員会・報告会・委員会と、みつどもえ・よつどもえになりながら続く流転の役割であったが、つねに伴走者がいて、つねに話し合いができていたということに気がつけなかったのだ。そして常にフリコは戻されていたのである。徒労に終わっているようでいて、実は次々に霊的な息吹は注がれていたのだ。