きょうは半日有給休暇を使って、一日行動の一部に参加した。朝から裁判所。からだに悪いなぁ。不当解雇撤回を求めて起こされた提訴。傍聴を終えて、即、霞ヶ関デモに参加。冬の雨で寒い上、傘もほとんど役に立たず、ずぶ濡れでした。
他の人々はそのまま埼玉県庁へ申し入れに出かけたが、自分は仕事に復帰。午後は賃金カットの組合外出扱いとしました。
夜も続きで代々木でデモ・集会が行われたのだけど、こちらは断わって高円寺へ。歩き回って、ちょっと腰が痛いです。腐ったような色になった白靴下は処分。
高円寺ではグループの会議。来年上半期の役割決定だったのだけど、つぎつぎに奇跡のように決まっていく。ここ数年、うちのグループでは「やる人がいない」という状況は皆無。再任もほとんどない。3,4年経ってからのいわば「循環任」はあるけどね。
先日ここに「不平等」という主旨のことを書いたが、訂正したい気分である。すなわち、神のもとには平等かもしれん…、というのが最近の結論。やった人は享受し、やらぬ人は掴めない、ということ。なにも組合や役割の話だけではない。全分野にあまねく働いている原理かもしれない。
狭い切口だけで見るとたしかに不平等が露呈するけど、総合して考えると、神様は均等に配分してくださっているのかもしれないと感じる。
これもちょっとした自分の中での今のテーマ。依存と罪悪感は一枚のコインの裏表かなぁ。罪悪を感じながらそれをやってしまうというのは、病気の症状としか言いようがない。わかってて、やる。健康な精神の人から見ると「狂気の沙汰」と見えるようですね(笑)。
でも自分はこれが好きだったのかもしれない、そして今も好きかも。でも消したいかも。消したいエネルギーがマイナスの強力な力を生み、結果的にそれがパワーとなり昇華される。わけわかりませんかね(笑)。現時点で自分の棚卸しすると、こうなります。
恐れもそれ自体は悪いことではない…という理屈にほっとする。使い方次第だし、エネルギーの源。でもせめてプラスのエネルギーに突き動かされたいなぁ。そのほうが少なくとも自由な感じかも。
「愛」なんてへどが出そうな言葉だったんだけどなぁ。あと「仲間」とか「協力」とかもね。それくらい自分は自己中心で、健全な感情は持っていなかったみたい。「みたい」というのは自発的に気づいたんではなく、仲間の話をいろいろ聞くに及んで、ひょっとしたら自分もかも、と気づいたから。
いまはでも、この愛と共感なくしては、なんの幸せ感もない。信頼の中で生きていたい。あと、言ってることとやってることを、できる限り合致させたい。口ではいやんと言ってもからだはひーひー言ってる、みたいな。下品なたとえですんません。